かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

音楽雑記帳:8月6日に「水のいのち」を聴く

今日は、8月6日。日本人にとって、8月9日、8月15日などと同じく重要な日です。

しかし、今年はなぜか単なる悲しい曲だけをチョイスすることが憚れました。それは間違いなく、今年に起きた震災と、それが引き金となった原発事故が影響を及ぼしていることは間違いありません。

ちょうど土曜日にあたったこの日に、何を書こうかとさんざん迷った挙句、棚を見て考えたのが、「高田三郎氏が生きておられたら、この事態をどう音楽で表現されるのだろうか」ということでした。

そこで、本当はかなり先で取り上げる予定だった、「水のいのち」を音楽雑記帳のコーナーで取り上げようと思ったのです。

水のいのちの解説として一番適当なのは、ご本人の解説なのではないでしょうか。ブックレットからの転載は著作権の問題があるので難しいのですが、幸いなことに、サイトがあったのです。

水のいのち 作曲者 高田三郎の解説
http://www.recomposer.net/mizunoinochi.html

1964年と言いますと、昭和でいえば39年。つまり、オリンピックの年であるわけなのですね。当時の世相は私はさすがに年齢的に生まれていないのでなんとも言えませんが、低俗なものが氾濫していると感じたということは、当時の広告の派手さを想像させますし、また幼さをも感じます(一方でそれは、日本が戦後の「坂の上の雲」へ登ってゆく過程でもあったわけなのですが)。

さて、なぜこの曲を今日この日に取り上げようと思ったかと申しますと、この歌の歌詞がとても哲学的である点にあります。現代音楽の旋律がそのものが形而上的であることとは違い、この時期の日本の混声合唱曲は、特に高田三郎氏の作品は、親しみやすい旋律に形而上的な歌詞を乗せることが特徴です。だからこそ引き込まれていきます。

正直言って、この曲を取り上げるのもかなり迷ったのです。それは、表面的にとらえる方々からは、「なんでこの時期に海だの取り上げるのだ」とおしかりを受ける可能性があったからです。しかし、海によって苦しみを受けた人たちの哀しみを、ここで取り上げないでいったい誰が取り上げるというのでしょう。

川や海を、私たちは本当に謙虚に受け止めてきたのでしょうか。もし、謙虚に受け止めてきたのであれば、福島第一の災厄は少なくとも小規模で済んでいたはずで、多くの人が避難するような事態にはなっていなかったように思います。さらに、多くの人が津波によって命を落とすこともなかったでしょう。被害は最小限で済んだはずです(実際、集落のほとんどが生き残った場所もあります)。

今、私たちは第1楽章「川」のように立ちすくんでいます。しかし、そこで止まってしまってはそのままか、後退するだけです。

この曲が訴えていることは、いまこの震災と事故が起きた今年だからこそ更なる意味を持つを思っています。なぜなら、この曲が言いたいのは、自然を護れとかそういう直接的なものではなく、水の魂というものを借りた、人の生き方を問うているのですから。もっと多面的で、一言で言い表せるようなものではありません。

聴いているCDは、高田三郎氏ご本人が指揮しているもので、合唱団は神戸中央合唱団。だからなのか、とても気合いが入っているものでもありますが、だからこそ、この事態に多くの人の心に響くのはないかと思います。機会がありましたら、聴いてみていただきたく存じます。できれば、CDを購入して、歌詞を見ながら聴いてほしいと思います。この曲が訴えたいことが、エネルギー論争などよりもっと高次元のことを取り扱っていることに、気が付くはずです。



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地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。