音楽雑記帳、先週に引き続き追悼にお付き合いください。先週のヨゼフ・スークに続き、今回は宇宿允人です。
宇宿允人は以前このブログでもエントリで取り上げています。
マイ・コレクション:宇宿允人の第九
http://yaplog.jp/yk6974/archive/522
この時に取り上げた約一か月半後の3月5日、亡くなられました。
http://www.usuki-world.com/index.html
上記のエントリで、私はこの人の指揮で歌っていると述べましたが、今回はその時のものを聴いています。「宇宿允人の世界」の番外編という感じです。大田区で行われた「平和祈念コンサート」の第1回の時のものです。
今は第2回のものが残っているようですね。ということは、これはとても貴重な音源ということになるのかもしれません。
今回は第4楽章だけを聴いています。この時は宇宿氏が直前まで風邪をひいていまして、さて本番に間に合うのかとという状況で、さらに8月15日にやるということですから、どうしても練習中に戦後体制に触れるんですね、宇宿さん。実は、それが私にとっては自分の家族を侮辱されたと感じ、私と宇宿さんが一触即発になったということがありました。
仲介役の方が間に入り、私の方が折れることで(というより、相手は指揮者ですから状況的に折れざるを得ませんでした)、ことなきを得ましたが、私の方はもう頭に血が上っているのです、珍しく。練習どころではありませんでした。
そこを、どうにかやったのは、責任感です。彼も決して私を侮辱するつもりはなかったんでしょうが、しかし私の父は大田区のメーカーの技術者だったので、それもあって私は頭に来たのですね。どうやらそれは伝わったらしく、本番の後のうちあげでは、優しく笑っておられました。
いまどき私に向かってくるとは、なんと向う見ずな血の気が多い青年だろう、と・・・・・・
まあ、今考えれば恥ずかしい面もありますが、そういった魂と魂のぶつかり合いというものが、この演奏の根底にあることは間違いないでしょう。私が怒り狂っていたのを、他の団員も聞いていましたから・・・・・
私は怒っていましたが、しかし彼の情熱を否定していたわけではありません。そういった社会への「想い」というものは私も同じでしたし、また私の父も同じでした。のちにこのことを父に話しましたら、俺は彼の言うことは結構わかると。じゃあなんで私は怒らなければならなかったかと言うのはありました。なんと心の広いオヤジでありますこと・・・・・。たぶん、その場にいたら私以上に怒っていたはずですが^^;
まあ、ある意味自分の父親にも似ている人でした。音楽に誠実なんですね。それは事実です。この演奏でも、それが色濃く反映されています。上記のエントリよりも、少なくとも合唱団は秀逸です。それは今でも私の自慢です。そのテノールパートで歌えたことは、今でも誇りに思っています。
ともに戦後日本を立場は違えども憂いていた二人が、一方は絶対的な立場としての指揮者、一方は合唱団員として出会ったのです。その経験は、今でも素晴らしいものとなっています。
私はそれ以後、一度東京芸術劇場の演奏に足を運んだことがあります。年末の第九です。それもとても素晴らしく、魂が震えるものでしたが、そこでもやはり同じことをやらかしていたようです。やっぱりねえ、と昔とあるMLで話に花が咲いたことがありました。その相手がその演奏会に出ていたものですから。
宇宿さんはその発言から誤解を招きやすい人でもあったと思います。先生、そういわなければそこまで言いませんのに〜と思いましても、相手は絶対的な存在ですからねえ。それが大変ご自身を孤独に追いやっていたと思います。「孤高の指揮者」とはよく言ったものだと思いますが、まあ、自分でまいた種でもあります。ただ立派なのは、それをつらぬいたということです。だからこそ、喧嘩しても私は宇宿氏を評価するのです。
打ち上げ後の笑顔が、すべてを語っていましたから、今では私はもう怒りもわだかまりもありません。もし先生がもう少しだけ生きておられたら、福島第一原発をどうおっしゃるのか、訊いてみたかったです。
先生の魂が無事天国へと昇っておられることを願いまして・・・・・
合掌。
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地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。