かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:BCJ バッハ カンタータ全曲演奏シリーズ46

今月のお買いもの、まず一枚目は毎度おなじみ、BCJのバッハカンタータ全曲演奏シリーズの第46集です。収録曲は集録順に第102番、第45番、第17番、第19番、そして第102番の第5曲目の異稿都なっています。

すべて1726年8月から9月にかけてのカンタータとなっており、構成的にシンメトリーであることが特徴です。

この時期の作品は「ルードルシュタット詩華撰」からとられている歌詞が多いのですが、確かにカンタータですからそれも重要ですが、私は全部7曲から成りたち、そのすべてが中間第4曲を中心点としてシンメトリーになっているその構成の方に興味が向きます。

その中でも一風変わっている第102番「主よ、汝の目は信仰を顧みるにあらずや」を第1曲目に持ってきています(ちなみに、初演の順番は第45番、第102番、第17番、第19番となります)。受難を迎えたイエスエルサレムへ来て、その将来を憂うという内容のこの曲のどこが変わっているかと言えば、第2部が第5曲目から始まっているということです。

これまではほとんど第2部はその中心点となる第4曲から始まることが多いのですが、ここでは第5曲、つまりシンメトリーが始まる曲から始めているのです。第3曲の反対に相当する曲となります。つまり、中心曲は第1部の最後の曲となっているということになります。これはどういうことなのかと思いまして調べて居ましたら、事典に興味深い記述がありました。

「7度跳躍の旋律に乗せてバスが語るその予告は、同時に最後の審判への警告である」(東京書籍「バッハ事典」P.116)

で、ネットで「7度跳躍」で検索しましたら、なんとこういったサイトがありました。

第十一章 分散音と外音
http://www5d.biglobe.ne.jp/~sak/dentou/110.htm

ここでは7度の跳躍は避けるべきとあり、まれに分散音からは有りうるとの記述があります。

また、ほかではジャズの理論でも7度跳躍は避けるべきで、やるなら短7度跳躍だという記述も散見されます。

つまり、この曲は私たちにかなり専門的な音楽の素養を要求している、難易度の高い曲であるということなのです。その割には、冒頭の合唱はとても印象的なフーガで始まります。

調べれば調べるほど、この曲に詰まっている情報量は多く、ここでは書ききれないくらいです。しかしバッハはその持てる限りの音楽理論をつぎ込んで、エルサレムの未来を憂えるイエスの気持ちを表現しているのです。

いつかこの1曲だけでも、エントリを立てたいと思います。第1曲がミサ曲ト短調の第1曲目へ、第3曲と第5曲がミサ曲ヘ長調の第4曲目と第5曲目へ転用されていますが、それはもしかするとこの曲が本来持っている「力」ゆえバッハがチョイスしたのかもしれません。

次に第45番「人よ、汝はさきに告げられたり、善きことの何なるか」です。1726年8月11日にライプツィヒで初演されました。偽預言者を警戒せよという内容にしては、ホ長調の堂々たる合唱から始まります。構成的には第4曲を中心としたシンメトリーです。第1曲目の壮大なホ長調の合唱で歌われる予言の内容と最後のコラールで歌われる神の導きのもとに務めを全うするという決意とが浮き出てくるようになっています。こういった仕掛けがこのシンメトリーが持つ特徴でもあります。

こういった遣り方というのは小説でよくありますね?冒頭は現在のことなのだけれども、その後いきなり過去へ遡り、そこから現在へと時間を下って行く・・・・・そこで、冒頭の意味が分かるという筋書きです。特にこの曲ではそれが顕著となるようになっているのですね。

第3曲目の第17番「感謝の供えものを献ぐる者は、われを讃う」は、1726年9月22日にライプツィヒで初演されました。イエスがいやした人のうち感謝したのはさげすまれていたサマリヤ人だけであったということを題材に感謝を掘り下げたこの曲は、その内容ゆえか壮大な序奏とフーガで始まります。イ長調の明るく美しいその音楽が何を指し示すのかが第2曲目以降、サマリヤ人の故事を題材につたえられ、最後のシンメトリーとなるコラールで、父なる神の憐れみを讃える楽曲でその意味が分かるという構成を取ります。

その意味は単純にどうと言えるものではないと思いますが、一つは隣人愛であり、もう一つは癒しを受けた側の心の問題を浮かび上がらせています。このように特にこの第46集で取り上げている楽曲は、単純にこういったことを意味しているということがなかなか言いにくい、優れた内容を持つものとなっています。

第4曲目の第19番「かくて戦い起これり」は1726年8月29日にライプツィヒで初演されました。この曲だけは「ルードルシュタット詩華撰」ではありません。作者はわかりませんが、ピカンダーの詩集「教化的な思想集」に基づきます。初演日は大天使ミカエルの祝日に当たるので、そのミカエルの悪魔との戦いをテクストとして、私たちに「死に方」をかんがえさせるものとなっています。冒頭合唱は前奏なしのフーガ!レヴェルはいきなり最高度に上がります。それがミカエルとサタンの軍勢との戦いを描いているんですね。そして、シンメトリーとなる最終コラールで復活の日を予言することで、聴き手に死ぬまでどう生きるのかを問うのです。

この曲はさらにほかの三曲とは違い2部構成を取らずシンメトリーの7曲が一連の流れで続いていきます。つまり、ここではテーマは一転じつにシンプルなものになっているのですね。これは仏教でもよく説話で出てくるテーマですが、こういったことは実に日常生活ではあまり考えないですね^^;

だからこそ、それを考えさせるための仕掛けがところどころに散見されるものでもあります。冒頭合唱もそうですし、第5曲と最終コラールではトランペットが珍しく使われています。そういった工夫を随所にみることが出来ます。

最後に収録されている第102番の第5曲目の異稿は、初演時のもの。本編は1731年7月31日と推測されている再演時のものにしています。その違いはテノールソロまでの導入部の長さおよび使用楽器で、その差を聴き比べてみても面白いでしょう。CDプレーヤーでプログラム機能がついている方は第5曲をこれに差し換えてみましょう。パソコンで聴いている人はちょっと面倒ですが、リッピングしてファイルを編集して並び替えてみるということをしてみましょう。いろいろ気付く点があるかと思います。なお、この初演時のものはフルート、本編はヴァイオリンです。

この第46集では特にオケが素晴らしい演奏を見せています。アンサンブルの素晴らしさ、ダイナミクス。これが果たしてバロックなの?とうなってしまいます。ソリストも全員力が抜けているがためとてものびやかで力強くかつしなやかです。

だからこそ、いろいろ考えさせてくれるのかもしれません。あらがあればそこを突っ込んでしまいますから・・・・・

当時のオケのレヴェルでは、果たして聴衆にどこまで音楽で伝わったのかなと、思いをはせてみるのも、また楽しいひと時です。



聴いているCD
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第102番「主よ、汝の目は信仰を顧みるにあらずや」BWV102
カンタータ第45番「人よ、汝はさきに告げられたり、善きことの何なるか」BWV458
カンタータ第17番「感謝の供えものを献ぐる者は、われを讃う」BWV17
カンタータ第19番「かくて戦い起これり」BWV19
カンタータ第102番第5曲の初演時版
ハナ・ブラツィコヴァ(ソプラノ)
ロビン・ブレイズカウンターテナー
ゲルト・テュルクテノール
ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
(BIS SACD-1851)



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