かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

マイ・コレクション:ハンガリーのオケのブラ3とハイドン変奏曲

今回のマイ・コレは、ブラームス交響曲第3番です。前回と同じ指揮者とオケの演奏です。

というのは、実は私はこの時一気に第2番から第4番までを買っているからなんです。当時、ずっとブラームス交響曲は前曲そろえたかったので・・・・・

ちょうど、サイトウ・キネンがツィクルスをし終わった時期でもありました。しかし、サラリーマンは悲しいですね・・・・・右肩下がりの給料の中、サイトウ・キネンのCDで全部そろえるのはどうしても金銭的負担が(ToT)

図書館で借りられるなんて知らない時代でしたし、その当時も貸し出していたかもわかりません。1番はすでに取り上げましたがシャイ―の指揮で持っていましたが、そのほかをサイトウ・キネンで集めるとすれば、万札一枚確実に飛んでゆきます・・・・・

ということで、この880円というスーパーバジェット・プライスのCDに落ち着いたというわけです。しかし、このCDがいいのではというひそかな期待もすでにありました。それがナクソスの存在だったわけなんですね。

ですので、この際安いのであれば一気にと考えて、2番から4番を買ってしまった、というわけなのです。

この第3番でも、その期待を裏切らず、端整かつダイナミックな演奏をしてくれています。そして当時は第1楽章の第1主題でのアンサンブルがしいて言えば難だなと思ってきましたが、今改めてパソコンで聴いてみますと、いやいやどうして、それほど難でもないんですね。

このあたりは、いいスピーカーで聴くことがいかに大事なのかがよくわかります。あのう、スピーカーだって3ウェイのいいやつなんですが・・・・・

当時、すでに10年選手でしたでしょうか、スピーカーは。うん、スピーカーってせいぜい10年くらいなんだなあと、今しみじみと感じています。

で、そのパソコンのも来年あたり10年選手なので・・・・・そろそろ買い替えかなと思っていたりします。いや、まだいいかな・・・・・

この第1楽章をたまに聴いて判断したいと思います(爆)

さて、この第3番ですが、ブラームスが1883年に作曲した作品で、ほぼ5か月でかき上げています。第1番に20年という歳月をかけたことからしますと思いっきり早いのですが、かといってめちゃくちゃ早く仕上げたわけでもありません。これが普通ではないでしょうか。逆に言えば、それだけ第1番を仕上げる重みというものがブラームスにあったということでもありますが・・・・・

でも、私は実は第1番よりもそれ以降の第2番や第3番のほうが好きなのです。特に今週取り上げています第2番と第3番は明るい曲ですので、ブラームスのイメージをいい意味で裏切ってくれます。

交響曲第3番 (ブラームス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC3%E7%95%AA_(%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9)

それにしても、リヒターの、「この曲は、ブラームスの『英雄』だ。」というのは言いすぎなんじゃない?と私は思います。むしろ、私は第2番の田園的な延長線上にあると認識しています。

昔、この曲を聴きながら近鉄奈良から奈良国立博物館正倉院展を見に行ったことが思い出されます。その時、第1楽章と第3楽章がその周りの風景とマッチしていて、心にしみた記憶があります。そもそも、第3楽章はいろんなところで使われている楽章で、かつてNHKN響アワーのテーマ音楽になっていた時期がありました。とくに第3楽章は愁いが前面に出ている楽章だと思います。

恐らく、英雄だというのは第4楽章なのでしょうね。確かにそんな激しい音楽であることは事実ですが、それだけで英雄とするのはどうなのかって思います。マエストロに反旗を翻すようなことになりますが、この「英雄」とは当然ベートーヴェンの第3番を指すのは言うまでもありません。しかしベートーヴェンのものは徹頭徹尾英雄を讃えることがテクストとなっているのに比べて、ブラームスの第3番はむしろ愁いからすべてがはじまっているように私は思うのです。

第1番のイメージがあまりにも強すぎるのかもしれないなあと思います。確かにあの曲はベートーヴェンを思いっきり意識していますので、苦悩から歓喜へというものがはっきりと打ち出されていますが、それ以後の3曲はそれよりも、もっと心の奥底の、愁いといった気持ちから発している音楽となっています。とてもブラームスしている、激しいながらも落ち着いたという感じすらあります。

特に問題の第4楽章は、途中抜けるような青空かと見まごうような部分もあります。そういった部分はなぜかすっ飛ばされているような気がします。

リヒターだとそういった演奏になるんでしょうか・・・・・ほかのオケの演奏も聴いたことがありますが、そんなに英雄しているかなあと思います。どの演奏を聴いても、あまりそんな勇ましいものには私には聴こえてこないのです。

私のある友人がこんなことを言ったことがあります。

ブラームス交響曲は、第1番から第4番へと行くにしたがって、絶望的になっていく」

これは名言だと、いまでも思っています。わたしもそれに同感するのは、まさしく聴いていて第2番から第4番まではだんだん心の奥底にある人生の「愁い」というものが創作の原点となっていったのではと思うからなのです。

そして今回はもう一つ、このオケがとてもいい演奏をしてくれているカップリングも詳しく見ていきましょう。長くなりますがご容赦ください(って、冒頭に書けよって話ですが)。

カップリングは「ハイドンの主題による変奏曲」です。

ハイドンの主題による変奏曲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%B3%E3%81%AE%E4%B8%BB%E9%A1%8C%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%A4%89%E5%A5%8F%E6%9B%B2

主題は実はそのハイドンのものが偽作か、あるいはハイドンのものであっても借り物であったと現在では認識されていますが、ブラームスが作曲した当時はハイドンの作と信じられていたようです。しかし、私はブラームスハイドンだと信じて作曲したという点に注目するのです。

現在、神奈川県立図書館所蔵CDでハイドン交響曲全集をとりあげていますが、私は特にこのブラームス以降の作曲家は、ベートーヴェン交響曲というよりは、形式的にいろんなものがあるハイドンを意識して作曲したのではないかという気がしてならないのです。後期ロマン派以降、現代音楽の時代になってゆくにつれ、フリージャズのごとくさまざまな形式の交響曲が生まれていきます。交響曲にいろんな楽器を入れて協奏曲風にするのはベートーヴェンの第九がその影響を及ぼしていると思いますが、しかし一楽章形式や、緩楽章と急楽章を入れ替えるなどの現象は、単にベートーヴェンの影響とは言い難いと私は思います。それはあきらかに、ハイドンを意識しているとしか考えられません。あるいはもっと古い時代の作品ですね。

ブラームスもそういった感覚を持っていたとすれば、とても納得なのです。

この曲はそういったことを踏まえながらも、しっかりと音楽はブラームスしていまして、とてもシャイで土臭い感覚を受けます。

実はこういった点が、第4番へとつながっても行くのですが、それはまた、来週述べましょう。こういった曲をさりげなく第3番とカップリングするなんざあ、さすがもともと輸入盤だけあるなと思います。

それでいて日本語解説がついて880円。ああ、もう一度再販してほしい〜!



聴いているCD
ヨハネス・ブラームス作曲
交響曲第3番ヘ長調作品90
ハイドンの主題による変奏曲作品56a
クリスティアン・マンデール指揮
「ジョルジュ・エネスコ」ブカレストフィルハーモニー管弦楽団
(BGM Arte Nova BVCC-6059)


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