かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ハイドン弦楽四重奏曲全集22

神奈川県立図書館所蔵CDのハイドン弦楽四重奏曲全集も、今回が最後となりました。いよいよ、最後の作品・・・・・ではないのです。

すでに、最後の作品は前回ご紹介しています。では、最後は何かといいますと・・・・・

「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」なのです。番号としては第50番から第56番までの七つになります。もともと、これらの7つの弦楽四重奏曲管弦楽であり、1786年に作曲されました。詳しい説明は以下のサイトのほうが詳しいでしょう。

「静寂」から「言葉」に向けての苦悩 ― ハイドン「十字架上の7つの言葉」を聴いて
http://seeds.whitesnow.jp/blog/2008/09/08-202506.html

楽曲構成としてはウィキのほうが分かりやすかと思います。

十字架上のキリストの最後の7つの言葉http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6%E4%B8%8A%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE7%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89

つまり、番号が飛んでいるあの部分、というわけなのです。もともとが管弦楽曲で、いうなれば一昨日申しましたモーツァルトの「教会ソナタ」に近い作品ということになります。実際、ソナタ形式ですし、形式上から言っても、その作成経緯と目的から言いましても、この作品はもともと教会ソナタであると言ってもいいでしょう。

そして、その教会ソナタの各楽章が、おのおの独立した弦楽四重奏曲として扱われているということなのです。ですから、キリストの7つの言葉に対応する7つ弦楽四重奏曲の番号が付けられている、ということになります。

ゴルゴタの丘で、イエスは十字架にかけられますが、そのゴルゴタの丘で起きたことに特化した内容となっています。ですから、特に受難曲が好きな人にとりましては、そのコンテキストがよく分かり易いものなのですが、あまり好きではない方にとりましては、まずゴルゴタの丘で何があったのかを先に説明しないとよくわかりにくい曲でもあります。

エスはユダの密告によって囚われの身となり、ローマ総督ピラトのもとへ連行されます。そこでイスラエルの王と称していたことから磔刑が決まり、ゴルゴタの丘で刑に処せられます。刑執行後、地震が発生しイエスが復活する、というのが所謂キリストの受難というものです。そして、そのうちゴルゴタの丘の場面と復活をこの曲では取り扱っていますので、ゴルゴタの丘で起きたことに特化していると申し上げたのです。

ですので、いきなりニ短調の重々しい曲で始まります。そして聖句が語られ、その間を埋めているのがハイドンの音楽ということになります。

その音楽ですが、管弦楽と比べますと以下のようなサイトの記述もあります。私は弦楽四重奏曲版しか聴いていないのでこの点につきましては何とも言える立場ではないのですが、参考にしてくださいませ。

ハイドン  「十字架上の七つの言葉」 弦楽四重奏版と管弦楽版聴き比べ
http://www51.tok2.com/home/sendatakayuki/cd/haydnseven.html

さて、このエオリアンの演奏の特徴なのですが、様々なサイトを参照しますと今ではピリオドで非常に素晴らしい演奏が出ているようですが、私は別な点に注目しています。それは、聖句です。本来は聖書から取られるはず、なのですが、どうやらこのエオリアンのものはそうではないようです。ほとんどがいくつかの詩からとられているようなのです。圧巻なのは、第53番である第4ソナタと第54番である第5ソナタの間に、1940年のロンドン空襲を題材とした詩が織り込まれている点なのです。

そのせいか知りませんが、エオリアンの評判はあまり芳しくありません。ハイドンを聴く人がどのような人たちなのかが一目でわかってしまうように思えるのは私だけなのでしょうか(いや、その評価が純粋に音楽に関するものであって、私の思い過ごしでなければいいのですが)。

つまり、エオリアンはこのハイドンの音楽に、反戦の思いを込めている。そのようにとらえることも可能であるわけなのです。

実はこのエオリアンは一番最初に述べているかと思いますが輸入盤で、解説がすべて英語なのですね。いや、正確には英語でトラック表示があったということで、実はなぜそのようなことになっているのは解説書すら借りていないので全くわからずじまいなのです。当時、とにかく音楽を聴くことで精いっぱいだったということもあります。

今翻って見ますと、なぜエオリアンはこのような構成をとったのかが不思議なので解説書を借りるべきだったと反省していますが、どうやらこういったことはずいぶんとやられているようで、アメリカでもこのような例が最近ロックフェラーであったようです。

考えてみれば、キリスト教文化圏に住む一定の知識階級の人たちは、聖句など常識であり、それにそった詩を織り込むことは別段問題ではないと考えることも可能です。実際、私はミサに参加したことがありますが、聖書を読むというより、聖書に沿った内容の話題が出るということのほうが多いのです。となると、そういったテクストでこのヴァージョンは演奏されている、と考えてもいいと思います。

つまり、これはもともとオーケストラ曲を室内楽へとハイドン自身が編曲したわけです。なぜそうしたのか?それは当然、日常的な宗教儀式でも使えるようにと考えたからに相違ないでしょう(実はピアノ版すらあるくらいです)。教会の日曜礼拝で行われるような形式で演奏するというやり方も、アリなのかもしれないと思います。

そう考えれば、なぜエオリアンの演奏が最後の地震のところであまり激しくないのかが、浮かび上がってくるようにも思えるのです。これは単なるドラマではないのです。聴く人一人一人がイエスという人の受難を通して、自らの命を考えてほしい・・・・・そのためのドラマという形を借りたあくまでも礼拝なのだ、ということです。

これが単なるドラマだと思っている人にとっては、素晴らしいピリオドの演奏と比べれば物足りないでしょうし、またハイドンを聴くくらいの「保守」層であれば、反戦ということを織り込んだこの演奏は許しがたい敵でしょう。しかし、エオリアンが伝統を大切にする団体であるということは、細部を聴けばわかることで、その点をスルーする点から浮かび上がってくることはたくさんあります。

エオリアンという団体、只者ではないですね。まさかある意味付録的な存在ともいえる「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」からいろいろ考えさせるあたり、日本の団体では難しいでしょうし、また、日本人の発想ではなかなか難しいのでは?と思います。

エオリアンが低評価ということは、それだけ彼らの演奏が日本人の論理構造から外れている、向こうでは素晴らしいものであるという証拠でもあるのだと思います。



聴いている音源
フランツ・ヨゼフ・ハイドン作曲
「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」作品51(弦楽四重奏曲版)
弦楽四重奏曲第50番Hob.III.50
弦楽四重奏曲第51番Hob.III.51
弦楽四重奏曲第52番Hob.III.52
弦楽四重奏曲第53番Hob.III.53
弦楽四重奏曲第54番Hob.III.54
弦楽四重奏曲第55番Hob.III.55
弦楽四重奏曲第56番Hob.III.56

�@序章:マエストーソ・エドアダージョ
�Aキリストの聖句(ジョン・ドン)
�B第1ソナタ 「父よ!彼らの罪を赦したまえ」 アダージョ
�C祈祷者、キリスト教徒と死との対話
�D第2ソナタ 「おまえは今日、私と共に楽園にいる」グラーヴェ・エ・カンタービレ
�Eよき金曜日:レックス・トラジクス(ロバート・ヘリック
�F第3ソナタ 「女性よ、これがあなたの息子です」グラーヴェ
�G悲しむことができないものは、私の側で学ぶが良い(Anon.)
�H第4ソナタ 「わが神よ!何故私を見捨てたのですか?」
�I依然雨は降り止まず(空襲、1940年。夜と夕方)(エディス・シトウェル)
�J第5ソナタ 「渇く!」 アダージョ
�K殺戮(エドウィン・ムーア)
�L第6ソナタ 「果たされた!」 レント
�Mテネブラエ、キリエ(デイヴィッド・ガスコイネ)
�N第7ソナタ 「父よ!あなたの手に私の霊を委ねます」ラルゴ
�O地震:プレスト・エ・コン・トゥッタ・ラ・フォルツァ

読誦部分セレクト:レジナルド・バレット・アイレス
読誦:ペーター・ピアーズ
エオリアン弦楽四重奏団



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