かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ハイドン弦楽四重奏曲全集7

県立図書館所蔵CDのコーナーのハイドン弦四全集の今回は第7回目となります。収録曲は作品17の後半三曲、第28番から第30番です。

形式がほぼ定まったのがこの作品17と言っていいでしょう。すべてのちの作曲家へつながっていく急〜舞〜緩〜急という各楽章の流れを持っています。

それでいて、例えば第30番第4楽章などはおどけた部分もありながら気品をうしなわず、のちのベートーヴェンの音楽も彷彿とさせるものになっています。そもそも全体的にも音楽の様相が変わってきていまして、単なる軽妙さだけでなく高貴さも備わってきていまして、聴いていて飽きるところがありません。

確かにベートーヴェンと比べますと精神性という意味においては劣るでしょう。しかし、ハイドンにそれがないわけではなく、むしろそれを押し殺しながらもにじみ出ているという点をもっと評価すべきだと思います。そう、にじみ出ているのです。

考えてみますと、最初の作品1からはすでに15年ほどの歳月が流れ、ハイドンの成長と熟練を見て取ることが出来ます。エオリアンにはそのハイドンへのリスペクトを感じます。アインザッツの強烈さや力の入れ具合、それによって生じる表現力・・・・・・どれをとっても一流ですし、それゆえにハイドンの音楽が私たちのイメージとは違うものであるということを証明してくれています。

それは、軽薄ではなく軽妙なのであって、精神性も備わっているししかもとても気品あふれる曲なのだということです。私達はハイドンといいますと彼の人柄や評論家がよくいう「軽薄」という言葉に左右されがちですが、こうやって順番に聴いてきますと、それが全く誤った認識であるということに気づかされます。

転調も粋なものへとなっていますし、いかにも古典派の厳しさも持ち合わせます。これのどこが軽薄なのでしょうか・・・・・・

もしかするとそれはパトロンへのすり寄りを指しているのかもしれませんが、それならばもっと音楽からハイドンの「真言」を聞き取ろうという作業が必要のように私には思えるのです。

モーツァルトのミサ曲や交響曲でも触れましたが、作曲者の深い心を演奏から読むとくという作業も、クラシックを聴く魅力だと私は思います。その視点でハイドンを聴いてみますと、ハイドンの音楽は果たしてそんなにも軽薄なのだろうかと首をかしげざるを得ません。

特にあげました第30番の第4楽章では、これが古典派なのか!と驚くくらいです。もっと先の時代、後期ロマン派も突き抜けて、むしろ20世紀初頭(たとえば、ワイルのような)まで行ってしまっているのでは?と思うような転調です。それが18世紀後半なのですよ!しかも、やっとベートーヴェンが生まれるかどうかという時代に・・・・・

モーツァルトすらやらなかったそんな大胆な転調をハイドンがやっていることを、私は高く評価したいと思います。そして、そこではエオリアンはノリノリです。もちろんその楽章が急楽章であるということも確かにありますが、ノリノリでありながら気品をうしなわず、堂々と演奏するその姿勢は私たちに最上の喜びを与えてくれます。

前にも言及しましたが、もしアルバン・ベルク四重奏団であったなら、どんな表現をするのだろうとわくわくしてきます。ハイドンの音楽に確かにそんな側面がある・・・・・・そう、宣言したいと思います。



聴いている音源
フランツ・ヨゼフ・ハイドン作曲
6つの弦楽四重奏曲作品17 第2集
弦楽四重奏曲第28番ハ短調作品17-4 Hob.III.28
弦楽四重奏曲第28番ハ短調作品17-4 Hob.III.28
弦楽四重奏曲第30番ニ長調作品17-6 Hob.III.30
エオリアン弦楽四重奏団



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