今回の県立図書館所蔵CDは、モーツァルトの交響曲全集の第12集です。いよいよ全集の最後まで来ました〜。
今回は第39番と第41番「ジュピター」の組み合わせ。普通は40番と41番と並ぶことが全集でなくても多いのですが、ここでは第39番とのカップリングになっていることが珍しい点です。もちろんその理由は、第40番を第25番と比較できるために別にしたからでしょうが、これはそうしなくてもよかったように思います。
第39番は1788年6月26日完成した4楽章形式で、恐らく生前に初演がなされた最後の作品ではないかと言われてます。素晴らしい序奏に堂々とした展開。まさしくモーツァルトの交響曲の頂点にふさわしい作品です。実は、39番から41番まではほぼ同じ時期に作曲されており、1788年の6月から8月までに作曲されていまして、セットで語られることが多いのです。せっかくここまでかなりk、きちんとした考証の上で高いレヴェルの演奏をしてきたのですから、その3作品は並べてほしかったですね。分かれてもいいので・・・・・
とにかく、ようやく4楽章がつづく状況なのです。ずいぶん久しぶりといった感じです。ハイドンの影響がいろいろ言われる曲ではありますが、私はやっぱりこれはモーツァルトがずっと4楽章形式の交響曲を準備してきたからこそできたものであり、この曲がハイドンの影響ということではないと思っています。音としてはそうなのかもしれませんが、彼が4楽章形式で書きたくてうずうずしていたのは曲をたどれば明らかで、彼はようやくウィーンの地でそれを実現できたということが言えるかと思います。構造的にはハイドンやそれに続くベートーヴェンとなんらそん色はないですし、違うのは前時代的なものがまだ音において残っているということだけです。彼の個性はすでに全開であり、この39番でも第1楽章ですでに不協和音的な部分があったりしています。
第1主題はまるでベートーヴェンの「英雄」のようで、とても歌謡的で気高いものです。もしもっと生きていたら・・・・・と思わずにはいられません。
第41番「ジュピター」は1788年8月10日にウィーンで完成されました。4楽章形式になっていまして、つまり39番から41番まではすべて4楽章。ようやく彼は交響曲において自分のポジションを得たように思います。ここまでようやくハイドン(ザロモンセットは当時まだ作曲されていませんからそれを抜かしても)の半分程度までです。彼はもっと作曲したかったはずですが、ここで終わってしまいます。彼が亡くなるのは1790年ですから、もっと書けたはずなのですが、疑義のある作品ですらないという状況です。ホグウッドがさらに20曲程度収録しているのですが、そのあたりはどうなっているのかが気になります。しかし、事典でもこの41番以降に何も言及がないことを考えますと、基本的に新作はこの曲以降現在確認できていないと考えていいでしょう。
この41番でよく言われるのが「ジュピター音型」と言われるもので、ド、レ、ファ、ミの四つの音のつながりをもつ音型のことを指します。これがこの41番の第4楽章で使われ、それがとても効果的であるためにそう呼ばれるのですが、事典ではそれは古今スカルラッティやパレストリーナのミサ曲、シューベルトのミサ曲ヘ長調、そしてブラームスのピアノ・ソナタ第3番アンダンテなどで使われていると指摘しています。そのテクストから考えますと、モーツァルトがこの曲に込めたものはとても大きいものであるといわざるを得ません。この音型を使って交響曲を堂々と発表できると考えて使ったと考えても全く差し支えないと思います。
さらに、この41番ではフーガが使われてもいまして、彼の自信の程をのぞかせます。交響曲だけで見ますとここで初めて使ったのでモーツァルトはここでようやくそれを体得したと思われがちですがそれは違います。フーガはすでに大ミサハ短調でも使っていますし、ザルツブルク時代は使いたくても使えなかったという側面を考えますと、やはりここでようやく使うことが出来たと考えるほうが自然だと思います。それはやがて、レクイエムでさらに洗練されたものへとなってゆくのです。フーガの部分は明らかにモーツァルトの作曲ですから。
このようにこの39番から41番までは明らかに彼の作品の集大成というか、ようやく彼がたどり着いた温故知新の発揮だったと考えていいと思います。実際、この曲に敬意を表して、ハイドンは彼の作品のいくつかに41番の音楽を投影させています。しかしそれがザロモンセットだったということを考えるとき、私たちはモーツァルトの作品の偉大さを感じるとともに、それをいち早く認識したのがハイドンであったということも忘れがちです。
ですから、私はこの後、ハイドンの交響曲を借りることとなるのです。この高みをいち早く評価したハイドン・・・・・そんな彼が、果たして凡庸な音楽を書くのか?ということです。彼の音楽は特に日本では評価が低すぎです。ミサ曲のときにも語りましたが、モーツァルトとハイドンを聴き比べますと、私はそう思います。
ハイドンとモーツァルトどちらも語ってはいませんが、音楽は雄弁に「モーツァルトの苦悩」を語っていると思います。4楽章を書きたくてもかけない・・・・・だから古い形式の3楽章で技を磨く。その間に試すように4楽章を書き、それはだんだん成熟してくる・・・・・いつしか準備は整うが、しかしチャンスがなかなか廻らず、ようやく死ぬ2年前になってめぐってくる・・・・・そんな彼の人生を語っているように思います。
ここから私たちが学ぶべきものは多いように思います。彼は天才と言われていますが、少なくとも交響曲とミサ曲を見る限り彼は努力家です。その点が特に日本ではすっぽりと抜け落ちています。エジソンはなんといったでしょうか?アインシュタインは?そのアインシュタインは無類のモーツァルト好きであったと伝えられていますし、親類にはモーツァルト学者すらいたのです!天才は人並み外れた「努力」をするから天才なのであって、モーツァルト以後の天才はそれがわかっているからこそ、リスペクトするのですね。
楽譜なしに、いや、一度でも彼の楽譜を見たことがある人であれば、演奏されている楽譜を見ていなくてもいろんなことを教えてくれるマリナー/アカデミーの演奏は、いろんな見方があるにせよ、私は素晴らしいと思っています。事典の演奏論の項目ではあまりいい評価が与えられていませんが、演奏経験があるものから言わせていただきますとちょっと低すぎです。確かにベームは劇場からのたたき上げですからその演奏には「ムラ」がないと思いますが、しかしそれはあくまでも一つの解釈にすぎません。しかも、多分に時代を反映してオケも大編成です。マリナーとアカデミーの演奏は、ピリオドでなくても充分モーツァルトが作曲した当時の音楽を現代感覚で再現することは可能であるということを示していると思いますし、それに見習うピリオドの演奏もあることを考えますと、この演奏が果たしている役割は依然重要であるように私には思うのです。それは明らかにこの演奏がプロの方からしますと古典派の演奏常識にかなっているからなのです。
そのマリナーですら、40番はロマンティックすぎると私は思っていますし、ベーム同様同じ劇場たたき上げであるサヴァリッシュのほうがきちんとスコアリーディングをしているように思うのは私だけなのでしょうか?
そこは、今後も私はこだわっていきたいと思っています。
聴いている音源
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲
交響曲第39番変ホ長調K.543
交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」
サー・ネヴィル・マリナー指揮
聖マーティン=イン=ザ=フィールズ教会アカデミー(アカデミー室内管弦楽団)
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