かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

マイ・コレクション:モーツァルト 戴冠ミサ ピノック/イングリッシュ・コンサート

今回のマイ・コレは、再びモーツァルトの戴冠ミサです。今回のはピノック指揮、イングリッシュ・コンサートという「ピリオド」のものになります。

当時、モーツァルトのミサ曲はすでにほとんどがピリオド演奏のものになっていまして、その代表的な演奏がこれでした。

特徴としては、ピリオドということ以外ではリットしないという点があげられるでしょう。特に、クレドはものすごいスピードで駆け抜けていきます。キリエはゆったりと入りつつも、その後はかなりテンポが速め。当時それはある意味面喰いました。

まあ、テンポとしてはすでに持っているシュライアーもそれほど変わらないのですが、しかしゆったりとした部分で八分音符が「はねている」ものとべったりとしているものでは、そのコントラストはかなり違います。そして、わたしは当時の楽器の性能からして「この演奏でいいのかな」と今でも思っています。

演奏としては素晴らしいと思いますし、今では昔ほど違和感はないのですが、ピリオドを聴きなれてきたからこそ、そのべったりとした演奏は果たして解釈としてあっているのか、と思うのです。むしろ、シュライアーがやったように八分音符ではねるほうが正しいのではないかという気がますますしています。

それを考えさせられるのは次の「エクスルターテ・ユビラーテ」なのです。この曲では弦が軽やかに動き回ります。実際モーツァルトが楽譜上で書いているのはこっちのほうではないかという気がするのです。

この演奏もそうですが、ピリオド、モダンどちらも「戴冠ミサ」という名前に惑わされているように思います。実際に戴冠式やそれに類する行事で使われたという確たる証拠はないのであって、そうなのであればもっとスコアリーディングした結果を反映させてもいいのでは?と思います。

その意味では、私は変態演奏たるシュライアーのものこそ、実は楽譜どおりなのかな〜って思っているのです。この演奏を聴くとますますそう感じます。

さらにそれにとどめを刺すのが、最後のヴェスペレK339なのです。合唱団は多少べったり気味ですが、オケは軽く動き回ります。それで全く違和感ありません。

これは私もかつて楽譜を見て歌いましたから確実ですが、戴冠ミサはオケ、合唱ともにべったりという部分はないんです。オケが動き回る部分では合唱団がべったり気味、合唱団が動きまわる部分ではオケがべったり気味ということが多いのです。もちろん、すべてがすべてそうだとは言いませんが、楽譜を見ればそうなっていることが多いのです。

戴冠ミサの楽譜を見てみますと、冒頭キリエの部分では、あまり長音が使われていません。私はいろんな演奏評を読んでいますが、それに言及している人がほとんど、いや全くいないなあと思っています。それは、明らかに日本では宗教音楽に対する造詣が浅いことを意味していると思います。ブルックナーなど後期ロマン派ならば、そういった批評家はたくさんいますが、宗教曲となるとさっぱりです。

さてそれで、果たして私は楽譜を見ていますなんていえるのかなあって思います。確かに、私にくらべれば楽典の知識もあるでしょうし、専門でしょう。でも、それならば戴冠ミサのキリエが押しなべてべったりというのはおかしいと突っ込みを入れるのがふつうというものです。

つまり、日本人は無宗教だからこんなもんでいいだろう・・・・・・そんな演奏だけ入ってきている、という可能性だってあるわけなのですね。それを見極める「目」と「耳」を、もういい加減私たちは持ちたいものです。



聴いているCD
ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト作曲
ミサ曲ハ長調K.317「戴冠ミサ」
モテット「エクスルターテ・ユビラーテ」K.165
ヴェスペレK.339
バーバラ・ボニー(ソプラノ)
キャスリン・ウィン・ロジャーズ(アルト)
ジェイミー・マクドゥグル(テノール
ティーヴン・ガッド(バス)
イングリッシュ・コンサート合唱団
トレヴァー・ピノック指揮
イングリッシュ・コンサート
(Archiv POCA-1079)