かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

想い:楽譜が読めるなら演奏者を応援すべき

最近、楽譜が読める読めないで私は批判の矢面に立ちましたが、それで感じたことがあります。

楽譜が読める、つまり楽譜を見ただけで頭の中で音楽が鳴る方は、どれだけ日本の音楽家を育てているのだろうか、と。

演奏者ではあるが、基本的にはリスナーである私とは違い、読める方は演奏のプロ、と言ってもいいと私は思っています。そういう人はどれだけクラシックも事業仕分けの対象になる時代に自腹を切って演奏家を育てているのだろうかと思います。

金曜日に言及したことは、そんなことも頭にありました。

批判は誰でもできますし、自分の意見も誰でも言えます。でも、その上で人を育てるというのは、並大抵のことではありません。育てているほうが苦しいことだってたくさんあります。

演奏家は日の目を見るまでは本当に大変です。食えませんから。それをどれだけ支えるのか、です。

モーツァルトは才能ありましたから早くから自立していたかといえば、実はそうでもありません。宮廷音楽家である父親の庇護のもと、才能を開花させてゆきました。彼が自立したのはウィーンにでてから、父親が亡くなった後でした。

ベートーヴェンは、ピアニストとして早くからその地位を確立して、家族を養っていましたが、それでも彼の音楽を理解する貴族が彼をサポートしたのも事実です。ベートーヴェンがその庇護に入らなかっただけです。

また、ハイドンエステルハージ家にどれほど自分の音楽を認められていたかわかりません。だからこそ、彼はエステルハージ家のために音楽を書いたのです。でも、その後解雇されたあと、彼は自立できることをイギリスへ行ったことで証明して見せました。

作曲家も含め、音楽家がひとり立ちできるまで、どれだけのサポートをするのか、その矜持はあるのだろうかと思い巡らせました。

楽譜が読めるのなら、何人もいる演奏家の中から、これはと思う人が必ずひとりはいるはずです。その人を身銭を切って支える・・・・・それこそ、私は才能として天から与えられた使命のように思うのです。

例えば、よく批判される宇野功芳先生。私も実はあまり好きではありません。それでも私は、彼の行動力を評価します。なぜなら、彼は実際に指揮して自分の音楽を聴衆に見せたからです。彼が女声合唱団を指導し育てているということはクラシックファンですと知る人は少ないかもしれません。

私は、そういう人は好きですね。宇野先生の文章は嫌いですが、人柄はすばらしいと思います。

それこそ、本当に音楽が好きだから批判している証拠なのですから。そこには、愛があふれています。そういう姿勢こそ、これから大事になってゆくのではないかと思いますし、専門家が批評をする場合、矜持として持っていただきたい点だと私は考えます。