今週の県立図書館所蔵CDも、ハイドンのミサ曲全集です。今回はその第4集で、ふたたびサイモン・プレストン/エンシェント室内とジョージ・ゲスト/アカデミー室内の組み合わせです。
プレストン/エンシェントのコンビは第4番「聖ニコライ・ミサ」を担当、ゲスト/アカデミーのコンビは第10番「テレジア・ミサ」を担当しています。このあたりは、当時の古楽の扱いをなんだか感じる部分ではありますねー。なんといっても有名なのはテレジア・ミサですから。
でも、「聖ニコライ・ミサ」もグローリアは特にボーイソプラノが印象的で、この曲が恐らく聖歌隊によって歌われたであろうということが一見してわかる名演なのではないかと思います。
そういう発見が、このシリーズは多いんですよね。実は、借りるときに聖歌隊なので逡巡したことは事実なのです。聖歌隊ですとボーイ・ソプラノであることは一般的。でも、私たちが聴きなれているのは女声のソプラノです。違和感を感じて当然です。
仮に、楽譜を見ながらでも日本人であればボーイ・ソプラノというのは違和感があるのではと思います。恐らく、その方の頭の中で鳴っているソプラノは女声であるはずだからです。そのイメージを一旦取り払わないと、こういう演奏は聴けるものではありません。下手な演奏の烙印を押してしまうことになります。
ところが、ハイドンの場合、確かにボーイ・ソプラノでも多少の違和感がある曲も存在しますが、私が聴いた限り、その頻度はそれほど多くはありません。特に、「聖ニコライ・ミサ」はそういった点が全くありません。その点で、私はこのシリーズを借りる決断をして良かったとおもっています。
実は、ハイドンのミサ曲は10年位前にタワーレコード渋谷店で合唱団時代の友人とともに全集を物色しています。そのときにはオラトリオも一緒に物色したと記憶しています。でもそのとき、買ってしまっていたら、もしかするとハイドンのミサ曲の本当の魅力というものを発見することができたかどうか、わかりません。そのときの合唱団はソプラノが女声だったからです。
勿論、この曲は女声の方がいいんじゃないかなと感じる曲はハイドンでも確かに存在しますが、ボーイ・ソプラノの透明感ある歌声は、大人の女声にはとても表現できるものではありません。それを念頭に置いてハイドンが作曲した場合、その曲が一見すると駄曲と判断してしまう可能性は充分あるのです。
特に、ハイドンの場合、聴いていて感じましたのは若い番号の作品と後の番号の作品とでは、ボーイソプラノであるほうがいいのかどうかが判断の分かれ目になるのではないかと思います。これはあくまでも歌うたいの人間からの判断ですが・・・・・
はじめは、まあ税金で運営されているんだからボーイソプラノの演奏があるものがあっても仕方ないかと私も思ってしまったのですが、それははっきりと間違いであると今では思っています。一年聴いてきて、それははっきりと断言できます。そういった偏見は間違いである、と。これこそ、図書館が果たす本来的な役割だと言えましょう。県民として、誇りを感じております。
また、聖ニコライ・ミサは時間にして30分ほどで、まるでモーツァルトの戴冠ミサを髣髴とさせる時間構成です。一方でテレジア・ミサは堂々たる42分間。こういった時間構成からも、ハイドンの多様性とそのアジャスト能力の高さを感じます。恐らく、ベートーヴェンなどはそのような部分を多分に研究して、尊敬していたのではないかと私は想像しています。それが、弦楽四重奏曲の作品18の6曲につながって行った・・・・・そう考えてもしまいます。
実は、そこから私はついにハイドンの弦楽四重奏曲も借りたいなと、思い至るわけなのですが・・・・・それはまた、別の機会に、ふたたびこのコーナーで取上げましょう。
聴いている音源
フランツ・ヨゼフ・ハイドン作曲
ミサ曲第4番ト長調「聖ニコライ・ミサ」Hob.XX�U.6
ミサ曲第10番変ロ長調「テレジア・ミサ」Hob.XX�U.12
エイプリル・カンテロ(ソプラノ、第4番)
エルマ・スプーレンバーグ(ソプラノ、第10番)
シェーリイ・ミンティ(コントラルト、第4番)
ベルナデッテ・グレーヴィ(コントラルト、第10番)
ロジャース・コーヴィ・クランプ(テノール、第4番)
ジョン・ミッチンソン(テノール、第10番)
デイヴィッド・トーマス(バス、第4番)
トム・クラウゼ(バリトン、第10番)
オックスフォード大聖堂聖歌隊(第4番)
ケンブリッジセント・ジョンズカレッジ聖歌隊(第10番)
サイモン・プレストン指揮、エンシェント室内管弦楽団(第4番)
ジョージ・ゲスト指揮、アカデミー室内管弦楽団(第10番)
(元CD:ロンドン 448-522-2)