かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ハイドン ミサ曲全集6

今週の県立図書館所蔵CDは、ハイドンのミサ曲全集の最後になります。今回はまずミサ曲全集の第6集になります。指揮はジョージ・ゲスト、オケはアカデミー室内です。

ともに標題がついているのに、さらに通称があるというミサ曲です。第6番は「ミサ・チェレンシス」が標題で通称が「マリアツェル・ミサ」、第7番が標題が「よき四季斎日のミサ」で通称が「戦時のミサ」です。合唱をやられている人は第7番はむしろその通称で知っている人のほうが多いでしょう。

こう聴いてきますと、ハイドンモーツァルトと違ってミサ曲がほとんどということに気がつきます。次に紹介する曲もミサ曲なので、ハイドンが作曲したミサ・ブレヴィスはたったの2曲しかないことになります。ただ、実際はどうだったかはわかりません。散逸した作品も多く、もっと書いていたかもしれません。

ただ、それでもミサ・ブレヴィスではなくミサ曲が残ったということが、逆に当時のハイドンに対する高い評価をうかがい知ることができます。音楽的な内容ではモーツァルトだったかもしれませんが、やはりベテランハイドンはどんな「サイズ」のミサ曲もお手の物だった、ということがはっきりとわかります。

これは、当時の委嘱側である貴族の要求にどれだけこたえられるかということによるものでしょうが、ハイドンがその能力が高かったということの証明です。そのくせ、音楽は癖がなく、すばらしい彫刻のようです。だからこそ、ミサ曲が多く作られたということはいえるのではないでしょうか。

逆に、モーツァルトはどっちも半々位で、むしろ若干ですがミサ・ブレヴィスの方が多いくらい。それは当時のモーツァルトの評価だと思います。でも、彼の音楽はキラ星のように輝いています。それは、単に才能だけではなく彼の努力による部分が多いのです。

そういう意味では、ハイドンモーツァルトも努力の人と言えましょう。ハイドン交響曲で、そしてモーツァルトはミサ曲で苦労をし、磨かれてゆきました。その遺産を受け継いだのがベートーヴェンです。

前にも申しましたが、モーツァルト交響曲は以外にも3楽章形式が多いのです。一方、ハイドンは以外にも4楽章形式が多いのです。この差は一体なぜでしょう?

私はまだそれについて明快に答えることはできませんが、ハイドンモーツァルトの評価と地位の違いというものが背景にあるのでは?と思っています。今、それについては著作を物色中です。ネットでは引っかかるものがないので・・・・・

ハイドンのミサ曲は、そんなことまで考えさせてくれます。

この2曲とも、ふたたび時間配分が似通っています。まさしく、彼は交響曲だけでなくミサ曲も形式を整えたのではないかと、私は考えています。その時間配分はとても見ていても美しいです。その点では、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスはかなり冗長です・・・・・ただ、それを補うすばらしい音楽が何とか駄作の烙印から逃れてさせていますが。

ハイドンのこの2曲はとても筋肉質で余分なものがありません。そんな点をもっと評価してもよいのではないでしょうか。特に、この2曲はハ長調なのです。ミサ曲で一番貴い調です。

それを第6番、第7番という時点で使えるということは、ハイドンの評価がいかに当時高かったかを示すものでもあるのです。この調は単に人気があったというだけでは使えません。実力もなければいけないのです。

その点はスルーすべきではないと、私は思います。



聴いている音源
フランツ・ヨゼフ・ハイドン作曲
ミサ曲第6番ハ長調「ミサ・チェレンシス」(マリアツェル・ミサ)Hob.XX�U.8
ミサ曲第7番ハ長調「よき四季斎日のミサ」(戦時のミサ)Hob.XX�U.9
ジェニファー・スミス(ソプラノ、第6番)
エイプリル・カンテロ(ソプラノ、第7番)
ヘレン・ワッツ(コントラルト)
ロバート・ティア(テノール
ベンジャミン・ルックストン(バス、第6番)
バリー・マクダニエル(バス、第7番)
ブライアン・ランネット(オルガン、第6番)
シュテファン・クローベリー(オルガン、第7番)
ケンブリッジセント・ジョンズカレッジ聖歌隊
ジョージ・ゲスト指揮
聖マーティン=イン=ザ=フィールズ教会アカデミー(アカデミー室内管弦楽団
(元CD:ロンドン 448 524-2)