かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

マイ・コレクション:ワーグナー ワルキューレの騎行

今回のマイ・コレも都合により土曜日に掲載となりました。今日はワーグナーです。「ニーベルンクの指環」から名場面集で、指揮はクラウス・テンシュテット、オケはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団です。

私が大学一年生の時、はまった作曲家が、ワーグナーでした。きっかけは、亡き母の一言でした。「あんた、そんなにクラシックに興味があって、国を憂えるなら、ワーグナーぐらい聴いてみたら?」といわれたのです。

この時期、東西ドイツをめぐる情勢は刻々と変化していました。それに伴って、ヨーロッパの周辺諸国の情勢も変化していました。当然、西ドイツとフランスの関係も・・・・・そして、東欧諸国と東ドイツとの関係も。その両方に関係するのは、ナチス・ドイツです。

マイ・コレクションの最初にマーチを取上げましたが、そのときに「ヴァーデンヴァイラー行進曲」を取上げたかと思います。その曲は歴史ヲタクならヒトラーがいろんな行事に参加するときの登場音楽だったということは有名な話です(ですので、日本ではわが国が敗戦国でかつての同盟国ゆえ陸上自衛隊が演奏できないという話を聞いたことがあります。取上げたCDでも演奏は海上自衛隊東京音楽隊です)。そのヴァーデンヴァイラー行進曲同様、ヒトラーがご執心だったのが、ワーグナー、特に「ニーベルングの指環」です。

ですので、母は私にその曲を聴いて本当のことを自分で調べなさい、と私に諭したわけです。後にも先にも、私がクラシックをろくに聴かなかった亡き母の提案を受け入れて聴き始めた作曲家はワーグナーだけです。

まず、書籍に当たることにしました。生協には新書コーナーが充実しており、そこで岩波新書で「ワーグナー」を買い求めました。当時は黄色のカバーでしたね。それが擦り切れるほどまず読み込みました。その上で、やはり大学の生協でワーグナーのCDを見つけて買ったのです。タイミングよくこのテンシュテットのCDがおいてあり、しかもそれはニーベルングだけでなく、彼のほかの楽劇の序曲集も一緒に売っていたのです。即決でどちらも買い求めました。

ですので、このCDを買った理由は、音楽的な理由だけではなく、かなり時事に興味があったことも大きいのです。そのため、今でも時事で何かあったときに聴くことが多い音源です。例えば、政権交代だとか、政治上で動きがあったときとかです。

本来、「ニーベルングの指環」はバイロイトで演奏されることを前提に作曲されていますので、一瞬迷ったのは事実なんですが、しかしそのオケがベルリン・フィルであるということが購入するときに決定的になった点でした。実は、ベルリン・フィルバイロイト祝祭管弦楽団の中心オケになることが多く、ワーグナーの音楽を知り尽くしていると言っても過言ではないのです。そのことを本で読んで知っていなければ、このCDを買っていいのか半年は悩んでいたことでしょう。

このCDは私が始めてクラウス・テンシュテットというドイツの重厚な指揮者に出会ったきっかけにもなったCDです。彼の解釈は端正であるだけでなくダイナミクスさも兼ね備えた、直球ど真ん中でした。それを的確に表現するベルリン・フィル。その演奏ですっかり私は「ワグネリアン」の仲間入りを果たすこととなりました。それ以降、特にニーベルングの指環は二度もヴィデオに録画するくらい夢中になって行きました。

標題は「ワルキューレの騎行」となっていますが、それは第1曲目がワルキューレの騎行であるからです。この曲はいろんなところで使われていますが、私はこのCDと著作でやっとつながったものがありました。それは、松本零士の漫画「銀河鉄道999」のなかの、まさしく「ワルキューレの空間騎行」という回なのです。それはまさしく、このワルキューレの騎行がモティーフとなっているわけで、そこでようやくあの回で松本氏が鉄郎とメーテルを使って表現したかったことがわかったのです。人間の横柄さ・・・・・それこそ、描きたかったことなのだ、と。

ニーベルングの指環は古い伝説を基にしてワーグナーが構成して作曲した、4夜からなる祝祭劇で4つの楽劇から構成されています。「ラインの黄金」、「ヴァルキューレワルキューレ)」、「ジークフリート」、そして「神々のたそがれ」です。そこで描かれているのは、人間の堕落による没落と、愛による救済です。かなり偏向している部分もありますが、しかしその偏向している点こそ母が私に諭した「本当の部分」だったのです。その点を、あなたはどう考えるのか、という点です。

この楽劇は、ワーグナーが反ユダヤ・ゲルマン第一主義へと傾倒した、一つの頂点での作品です。それは後にナチスの格好の広告塔の役割を果たしてゆきます。なぜなら、ワーグナーの楽劇は「ライト・モティーフ(先日、ヤマトの回で取上げました)」が各曲に与えられているため、宣伝に使いやすかったからです。そのため、戦後は上演禁止が相次いだ歴史を持ちます。

つまり、ニーベルングの指環は第二次大戦のナチス・ドイツの侵略の歴史と無関係ではないわけです。しかし、作品にはそんなあからさまなユダヤ批判はでてきません。比較的汎人類的課題を取上げています。ところが、人類の堕落をワーグナーユダヤのせいであると考えていたことがあり、それをナチスが利用した歴史をこの楽劇は持っています。それは上記でも述べましたがこの楽劇がライト・モティーフで構成されているが故です。そのことが、この楽劇を演奏するということによって軋轢を生んでいるのも事実なのです。

当然、侵略されたほうはライト・モティーフだからこそ、侵略された歴史を想起せざるを得ませんから。

しかし、ドイツは演奏をやめることはしません。でも、戦争責任はきちんと表明して、ヨーロッパの各国から一定の信頼を受けました。その歴史の上で、さまざまな批判や議論がドイツに関してはなされてきました。でも、一方の日本はどうだったか。日本の文化を簡単に他国が言ったからといって変えるわけには行きませんが、かといって日本は戦争責任となるともっと謝るべきだという意見と、いやもう充分謝った、もうこれ以上謝罪はいらない、という意見とが当時から交わされていて、そのくせドイツほどきちんとした責任の取り方はしてきませんでした。

ワーグナーのこの祝祭劇を聴けば聴くほど、私は日本の戦争責任と文化の守り方を考えるようになりました。いかなる形がいいのだろうか、と・・・・・・

その結論は既に私の中ではでていますが、それはここでは述べないことにします。ただ、テンシュテットのこのCDに出会わなければ、そこまで突っ込んで考えただろうかと思います。

このCD購入後、私は古美術や文化史関係の本を借りるだけでなく、毎日大学の図書館の視聴覚室へ足を運び、LDの「ニーベルングの指環」を何度も見まくる生活を送ることになりました。そのことが、今私の中で出ている「結論」に大きな影響を与えたのは紛れもない事実です。



聴いているCD
リヒャルト・ワーグナー作曲
管弦楽曲集1 連続祝祭劇「ニーベルングの指環」から
ワルキューレの騎行(楽劇「ワルキューレ」より)
ジークフリートのラインの旅(楽劇「神々のたそがれ」より)
ジークフリートの死と葬送行進曲(楽劇「神々のたそがれ」より)
・ワルハラ城への神々の入城(楽劇「ラインの黄金」より)
・森のささやき(楽劇「ジークフリート」より)
・ウォータンの告別と魔の炎の音楽(楽劇「ワルキューレ」より)
クラウス・テンシュテット指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東芝EMI CC30-9005)