かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト レクイエム ニ短調K.626

ついに、モーツァルトのミサ曲シリーズも、最終回を迎えました。ということは、レクイエムを取上げるということであるわけです。

この曲も、本来は未完の曲です。実際、東京書籍「モーツァルト事典」でも、括弧書きで未完とつけられています。でも、完成形にするためジュスマイヤーが補筆したということは、よく知られている話です。それには、理由があります。この曲には依頼者がいた、ということです。ウィーンのフランツ・ヴァルゼックフォン・シュタインバッハ伯爵により彼の奥様のためのレクイエムとして作曲されました。ですから、どんな形であれ完成させねばならなかったわけです。

しかも、モーツァルトが存命ならば、いっそ既存の作品を転用するという方法も最後の策としてはあったでしょうが、彼は作曲途中になくなってしまいます。では、どうするか?モーツァルトはそこで、自分の作品の特徴を活かし、ジュスマイヤージュスマイヤーによる作曲という補完までを含めた補筆を依頼したのです。

彼の作品は和音的とよく言われ、それが批判にもなっています。しかし、和音的だからこそ、この作品は完成形となれたのです。和音の原則に基づいているからこそ、その法則に基づいてジュスマイヤーは補筆できたわけなのです。

実は、モーツァルトがなくなった当時、既に和音の指示はジュスマイヤーが作曲したもの以外はほとんどなされていたということに触れる解説はそれほど多くありません。だからこそ、この曲は完成できたのです。

また、ジュスマイヤーが作曲した、ラクリモーサの後半部分と、サンクトゥス、ベネディクトゥスジュスマイヤーモーツァルトの一番弟子だからこそできた業です。基本的にモーツァルトは和声学の基礎を築いたといわれていて、それは今の音楽、特に歌謡曲やJ−POPにも受け継がれています。それだけの普遍性を持つものを一番弟子として充分に研究していたのが、ジュスマイヤーなのです。

だからこそ、モーツァルトは死ぬ間際、補筆をジュスマイヤーに頼んでいますし、それにより完成させるよう指示しています。それは、この曲が和音的だからこそ可能だったのです。

例えば、この問題はブルックナー交響曲第9番第4楽章と比べてみるとよくわかると思うのです。どんな学者がどのような補筆をしたとしても、現在ほとんどの指揮者が9番は第3楽章までしか演奏しません。一方で、モーツァルトのレクイエムは基本的にジュスマイヤー版で全曲が演奏されます。サンクトゥスとベネディクトゥスジュスマイヤーの「作曲」であるにも関わらず、です。それは、モーツァルトの音楽がとても和音的で、類推がたやすいという特徴に基づくものだからです。

しかし、それでもモーツァルト本人の部分と比べますと、ジュスマイヤーの部分はちょっとこねくりまわしている部分があり、歌いにくさがあります。その批判として、バイヤー版があります。確かに、通奏低音部分がすっきりとしていますので、シンプルさという意味ではよりモーツァルトに近いという特徴を持ちますが、だからといって、全体軌に過度に装飾をジュスマイヤーがつけているのかといえば、実はそうでもありません。実際、バイヤー版は聴いていて「え、そういう進行するかなあ」という 部分もあります。

むしろ、和音進行としてはジュスマイヤー版のほうが自然な場合もあり、私としてはどちらがどうとは言えないと思います。ただ、版の問題としては、私はジュスマイヤー版かバイヤー版かどちらかということで、そろそろ決着をつけてもいいころだと思います。歌った経験から言いましても、どちらもそれほど悪くはなく、それ以外はちょっと違和感があります。そろそろ宗教曲、つまり人声重視という立場からは、ジュスマイヤー版かバイヤー版かで統一してもいいような気がします。

実際、ジュスマイヤーが作曲したサンクトゥスは、モーツァルトのミサ曲の中でも最高クラスのサンクトゥスです。だからこそ、全体の中でも違和感がないと言えるかと思います。それだけ、ジュスマイヤーの仕事はすばらしかったわけなのです。ですから、私は基本的にジュスマイヤー版を支持する立場です。ただ、リズム部分である通奏低音部分のごちゃごちゃ感は私も感じるところなので、それを訂正しようとするバイヤー版には理解を示すことができるので、その次に支持する立場なのです。

そのほかの版は・・・・・まあ、いろいろ聴いてみましたが、しっくりときません。中には、大ミサのようにジュスマイヤーが「作曲」した部分をはずして演奏するというものや、新たに見つかったスケッチを元に再構成するものもありますが、いまいち支持できません。この曲には「何が何でも自然な形で依頼主へ完成させてお渡しする」という、モーツァルトの明快な「意思」が存在するからです。

ですから、仮にそれがモーツァルトの手によるものでないからといって削除することはできないですし、また新たに見つかったからといって、それに差し替えるものどうかと思います。まあ、差し替えの方がまだ私は支持できますけどね・・・・・

その点に関しては、私はほぼ結論が出ていると思っています。実際、現在CDで出ている演奏のほとんどはジュスマイヤー版ですし、後はバイヤー版がたまにある程度。ランドン版は見つけることができれば奇跡であるほどほとんど演奏CDがありません(前に一枚だけ記憶があります)。

実際、私はモーツァルトのレクイエムはCDを5枚持っていまして、今回はそのうち3枚をセレクトして聴いています。ジュスマイヤー版のカラヤン/ウィーン・フィルとコシュラー/スロヴァキア・フィル(ドヴォルザークの時に取上げましたね)、そしてバイヤー版のアーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスです。ジュスマイヤー版はモダンの演奏、バイヤー版はピリオドによる演奏です。この採用の仕方を見ても、既に結果は出ているように思います。ほか2つも一つはピリオドですがジュスマイヤー版を採用しています。

私はモツレクを聴くたび、ベートーヴェンの第九との関連を考えてしまいます。勿論、証拠は何もありませんが、特に第九を作曲する直前の時期はベートーヴェンモーツァルトの作品を研究していたことが知られていますし、前にもピアノ協奏曲の時にそれは触れたことがあるかと思います。主調が同じニ短調で、それぞれ最後の時期の作品。何かを感じられずにはいられません。繰り返しますが、実際には関連は何もありません。しかし、インスピレーションを受けたと考えることはできるかもしれません。

実際、第九は当初ベートーヴェンが考えていた構造とは別なものになっています。本来やりたかった構造だと、一体どうなったのか。それはモツレクと関係あるのか。興味が尽きません。

ニ短調という劇的な調性。共に後世の研究者によって校訂されている点。これも何かの縁なのかもしれませんね。私自身がそういう曲ばかり聴いているわけでは決してないので・・・・・

また、第九同様モツレクには本当にいろんな解釈があり、聴いていて飽きませんね。今回聴いている3つもそれぞれ味があり、また演奏の特徴も違います。特に、一番最初に聴いたカラヤン/ウィーン・フィルの演奏は特に怒りの日のドラマティックさは他の追随を許しません。和声的といわれるモーツァルトですが、これほど内に秘めたエネルギーもないでしょう。私が聴いたレクイエムの中で、未だにモツレクの怒りの日が一番気に入っています。さすが三大レクイエム(モーツァルトヴェルディフォーレ)に数えられる一曲です。

全体的には、静謐さの中に激しさを秘めた曲調となっており、ある意味ミサ・ソレムニスの路線に近いものを感じます。そういう意味では、完成した最後のミサ曲の流れを汲んでいるようにも思います。だからこそ、完成しえたのかもしれませんね。フーガをキリエから明確に使用し、ザルツブルク時代のミサ曲からは完全に脱皮していますが、それでも私はミサ・ソレムニスで完成させた丹精かつコンパクトで、ドラマティックな構成がこの曲でもいかんなく発揮されているように思います。

それを考えますと、余計大ミサが未完で終わってしまったのが残念なのです。総力を尽くせば、このモツレクのようにすばらしい結果が残せたものを・・・・・

やはり、依頼主がいる、いないの差なのかもしれません。自分のためだけであればどうでもなりますが、依頼主がいれば、いい加減なものはできませんから。もちろん、大ミサのように依頼主がいなくてもすばらしい音楽が出来上がりますが、多作の中で最後まで作り上げるということができるかどうかは、やはり依頼主、つまり生活するための金銭や、自らの誇りというものを考える存在がいることが大きいのではないかと思うのです。大ミサはその点で未完に終わり、レクイエムはだからこそ完成した・・・・・そう私は考えざるを得ないのです。