今月のお買いもの、平成26年11月に購入したものをご紹介しております。今回は銀座山野楽器で購入しました、BCJの「モツレク」です。
BCJと言えば、そのアルバムのほとんどが、バロック時代の作曲家に限られてきました。バッハ、ブクステフーデ、ヘンデル等々・・・・・それ以外では、かろうじてワーグナー版の「第九」があるだけで、しかもそれは特別企画でもありました。以前このブログでも取り上げています。
しかし、今回のアルバムは、古典派の作品を真正面から取り上げたものであり、BCJの新たな挑戦とも言うべきものだと言えましょう。しかも、その最初にモツレクとは・・・・・
校訂好きなBCJなので、モツレクを取り上げたのでしょうが、正直言えば、この演奏、あまりいいものとは言えないと思っています。勿論、演奏自体はBCJですから文句のつけようがありませんが・・・・・
歌詞の一部に、どうも共感できないものがあるのです。それは、コンムニオの「絶えざる光もて」の、ルックス・エテルナの付き方なんです。「ルックス」が跳ねるような音形になっていますが、果たしてそれで正しいのだろうかと、歌った経験のある私は首をかしげてしまいました。
え、ラクリモーサにアーメンコーラスがありますが触れないんですかって?それは私がどうこう言える問題ではありません。初めて聴きますから確かにおかしく聴こえますが、かといってそれはモーツァルトの真作であれば、別に問題ないとも言えます。ただ、レクイエムが書かれた時代を考えると、もう少し違った旋律になるかもなーとは思いますが・・・・・
それよりも、そもそもこのアルバムは、校訂が鈴木雅明氏の息子である、鈴木優人氏なんですが、優人氏は父と同じくオルガニストとしてのキャリアがある反面、古典派に強い人です。ですから、そんなに文句をつけることは出来ないのはたしかなのですが、それでも、コンムニオに関しては、少し考えなければならない点があると思っています。
ルックスエテルナは、同じ音型が繰り返されていて、例えばカラヤンやベームなどは、愚直に歌詞も同じ音型で統一しています。ところがこのアルバムでは、基本的にジュスマイヤーの補筆を選択しています(一部オーケストレーションはアイブラ―を選択)。にも拘わらず、歌詞は音型を無視し異なっているのです。「ルックスエテルナ」と「クム・サンクティス」とは同じ音型のはずなのですが、歌詞の付き方では違う音型となってしまっているのです。
モーツァルトはたしかに、少し変える部分もある作曲家なので、これが全く間違っているとは言えませんが、私は違和感を持ちました。コンムニオは完全にジュスマイヤーを選択しており、他の指揮者と変えることが出来る部分はほとんどないはずなのです。
レクイエム (モーツァルト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A0_%28%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%29
所謂、他の校訂で問題になる「ラクリモーサ」は、新発見のアーメンコーラスを入れてるという点では、モーンダー版とも言えるかもしれませんが、基本的にジュスマイヤー版で演奏した後、入れているのでこれはジュスマイヤー版であると言っていいでしょう。ならば、ルックス・エテルナも同様に、歌詞だけリズムを変えるようなことはおかしいように思います。というのも、この部分、オケは動き回っているのに合唱部分は比較的動き回っていないという、まさしくモーツァルトらしい音型だからです。
それを無視してしまっていいのかなあという違和感・・・・・これは何度聞いても解消しません。そのせいなのか、勿論演奏面で失敗とかそういう点はないんですが、聴いていてとても演奏に苦労しているように聴こえるのです。気のせいでしょうか・・・・・
カップリングのヴェスペレは、全く問題がないんです。ですから、オケ、そして合唱とものびのびとしていて、全く喜びをもって聴くことが出来ます。ところが、レクイエムは、勿論死者を悼む作品ですから喜びを持ってなどという事はないんですが、心の平安をかき乱されるように受け取ってしまうのです。
ジュスマイヤー版を基本としたのはとても評価できるんです。ジュスマイヤーはモーツァルトの指示に忠実であろうとした人だからです。ですから、多少おかしい部分もありますが、全体として統一感があり、決してモーツァルト一人で作曲したとしてもおかしく思われないほどのクオリティを持っています。ですから多くの指揮者が、ジュスマイヤー版を支持して、演奏してきた歴史がある訳です。ところが、この演奏はその歴史を踏まえつつも、否定もしていることになります。
批判精神はとても大切なことですし、私も同感です。しかし、この批判の仕方はいいのか?と自らに問えばそれは違うという答えしか返ってきません。ジュスマイヤー版そのものが、音の重ね方ではモーツァルトらしくなくしているという批判がありますが、それでもあっても、全体的におかしいということはないのに、この校訂では、たった一ヵ所の歌詞の付き方が、全体を変えてしまっているように思われるのです。
この校訂は成功だったのだろうか・・・・・今も聴きながら思います。テンポが速すぎ、浮ついているようにも聞こえてしまう演奏ですが、それはそれでまた意味があるように思います。まるで死神に追いかけられているモーツァルトを彷彿とさせるからです。ところが歌詞の付き方だけで、それが浮ついて聴こえてしまうのです・・・・・残念です。ヴェスペレが素晴らしいだけに。
これは私見ですが、まず完全にジュスマイヤー版で収録し、しばらくたって鈴木氏校訂で再録というほうがよかったように思います。モーツァルトの例えば、ミサ曲を全曲収録するプロジェクトを立ち上げ、それが終わってから、もう一度レクイエムだけ違った校訂で演奏してみるというのもありだったのでは?と思います。雅明氏を初め、メンバーの理解度がどれほどあったのか・・・・・そんな気がします。
まるでモーツァルトの慟哭のような部分もたくさんあって、素晴らしい部分もあるだけに、本当に残念です。その意味では、やはりモツレクは、大した作品だと思いますし、これを私もアマチュアながら歌ったんだなあと、感慨深く思います。
私はその経験というものを与えられている・・・・・それに感謝しなさいってことなのだろうなという演奏かな、と思います。
聴いているCD
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲
レクイエム ニ短調K626
ヴェスペレ K339
キャロライン・サンプソン(ソプラノ)
マリアンヌ・ビート・キーラント(アルト)
桜田亮(テノール)
クリスティアン・イムラ―(バス)
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
(BIS BIS-2091SACD)
地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。
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