かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト ミサ曲 ハ長調K.167「聖三位一体の祝日のミサ」

モーツァルトのミサ曲を取上げる今回のシリーズ、今日はK.167「聖三位一体の祝日のミサ」を取上げます。

三位一体の祝日はキリスト教では重要な祝日で、それはバッハのカンタータで随分と語っていますので、ここでは省きます。その重要な日に行われるミサのために書かれた曲で、モーツァルトのミサ曲の中でもほぼ唯一使用目的がわかっている曲です。

それも珍しいのですが、さらに珍しいのは、「独唱がない」ということです。それはこの曲だけに表れる点で、私も始めて聴いたときにはびっくりしました。当時、私は合唱団の楽譜を含めたレファレンスを担当しており、音楽監督にこの曲を定期演奏会の演目へ提案したほどです。何しろ、独唱者というのはお金がかかるので・・・・・

しかし、この曲が独唱者を廃したのはそれが理由ではありません。ほぼ間違いなく、大司教コロレドの「ミサは45分以内」の課題を達成するため、です。実際、この曲もいつもの二つの音源を聴いていますが、あわせても1時間を越えません。つまり、平均30分以内で済むよう作曲されている、ということになります。そのために独唱部分を廃した、ということになります。

独唱部分を廃するとなぜ短くできるのか。それは、通常ミサ曲は独唱に続いて合唱がほぼ同じフレーズを歌うからです。それを合唱だけにしてしまえば、独唱の部分だけ時間を短縮できる、というわけです。それは、前のK.140でも試した「端折り」の延長線上にあるのです。

え、短縮なら、独唱だけにすればいいじゃないかって?それはまずありえません。なぜなら、恐らく初演では合唱団は聖歌隊だったはずです。勿論、独唱者も聖歌隊からでる場合が多いわけですが、ミサを45分以内にするためには、登壇の時間も短くしなければいけません。それを実現するためには、聖歌隊のみにして登壇の時間さえ短縮する必要があるのです。

それでも、ミサ曲の基調であるハ長調を貫き、堂々たる曲に仕上げています。しかも、これまでのミサ曲ではなかなか試さなかったフーガまで取り入れられており、風格さえあります。

私はここに、彼の並々ならぬ課題達成への執念と努力を感じるのです。ベートーヴェンが聴覚という身体の障害を通して世の中で自分の自我を通す闘いだったのだとすれば、モーツァルトは世の中と自分の自我とをいかに両立させるかの闘いであったといえるかと思います。その奮闘ぶりが、このミサ曲からもよくわかります。いや、音楽としますと、とても明るく、伸びやかですが・・・・・

しかし、その努力が、その後のピアノ協奏曲や交響曲、オペラなどで花開くのです。この時期の努力が、全てではなかったかと私には思うのです。

この曲はその一端のように私は思うのです。特に、合唱団だけというその構造から、私は強く感じます。創意工夫の産物です。

そういう意味では、私は彼はこの時期常にTQCを行っていたのではないか、という気がするのです。TQC、つまり全員参加による品質管理です。

どんなにいい曲を書いても歌ってもらわなければ何にもなりません。そのために創意工夫を凝らし、歌いやすくかつ時間短縮をするにはどうすればいいのか、必死に考え、いろんな形式を試す。その現場が、ザルツブルクにおける教会だったのではないか。私はそう思っています。モーツァルト聖歌隊を含めた、実験場。それが、ザルツブルクの教会だったと、私は考えています。