かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト ミサ・ブレヴィス ヘ長調K.192(186f)「小クレド・ミサ」

さて、モーツァルトのミサ曲シリーズ、今日はK.192です。この曲は次のK.194と一緒に書かれたもので、ミサ・ブレヴィスの一つの解決策とも言うべき曲です。内容的にも、特にクレドにおける音形「ド・レ・ファ・ミ」から展開される信仰告白はすばらしく、学者の間でも彼の初期宗教音楽における最高峰の誉れ高い曲です。

この曲をはじめて聴いたのは、次のK.194が合唱団の定期演奏会の演目に決まったときでした。で、そのとき買ったCDが今も書きながら聴いていますコレギウム・カルトゥジアヌムの物だったのですが、カップリングでこの曲が入っていました。そのときのこの曲の透明感と言ったらなかったです。いっそこっちをやったほうがいいのでは?と思ったくらいです。

対位法もきちんとしていて美しいですし、それまでの曲の、何とか完成しましたという感じがこの曲からは徐々になくなってゆきます。それはおそらく、彼の中で一つ覚悟が決まったから、なのかもしれません。というのも、この曲はそれ以前のミサ・ブレヴィスと比べますと所要時間が若干長いのです。約20分ほどと5分だけですが長くなります。つまり、いい作品に仕上げるには、やはりある程度の長さは必要である、という結論に達したと考えられます。

実は、この曲以後極端に短い曲は書かなくなります。一方で、ミサ・ソレムニスはだんだん短くなります。ザルツブルク時代最後の時には、ミサ・ソレムニスとミサ・ブレヴィスは時間的にそれほど差がなくなってくるのです。それでも10分ほどの差はありますが・・・・・

しかし、一見するとどれがミサ・ブレヴィスでミサ・ソレムニスなのかは、長さからは判断しにくくなります。それが、質のいい作品を作るためにモーツァルトが下した決断だったのだと、私は判断しています。その最初の作品として、この曲の価値はとても高いものだと私は考えています。

各楽章も、展開がとてもすばらしく、ソナタ形式をきちんと使っていて、古典派らしい音楽が流れています。それがこの曲を誉れ高いものにしていると思いますが、ソナタ形式とフーガのすばらしい融合は、この曲に優雅さと気品を与えています。

ただ、クレドにおいてキリストの磔刑から復活までの場面では、展開がさらりと構成されているので、あれ?って思ってしまいますが、このあたりはまだ彼の苦労をうかがい知ることができます。まだまだTQCの途中だなあと感じます。悩んでいますね。それが、恐らく今後だんだんミサ・ブレヴィスの時間が延びてゆく一つの原因なのでは?と思います。

この曲からは、だんだんたくましくなってゆくモーツァルトを感じます。はじめはコロレドの課題に四苦八苦していたのが、だんだんやり方を習得してきて、その課題をだんだん達成してゆく。そんな彼の成長を見ることができます。

ミサ曲はそういう意味で、彼の信仰の証であるだけでなく、音楽における道場でもあったのです。それは、ブルックナーにも通じる、信仰に支えられた精神性でもあるのです。