かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595

モーツァルトのピアノ協奏曲を取上げるのも、最終回となりました。今日は第27番をとりあげます。

以前、第二戴冠式はこちらのほうがふさわしいと述べましたが、それにふさわしいファンファーレで始まります。しかし、派手さはまったくありません。ある意味、淡々と音楽が流れてゆきます。その上で、転調がすばらしく、聴くものを引き込んでゆきます。

音楽としましては、ベートーヴェンかと思わせるような部分すらあります。

ファンファーレ部分も、金管楽器ではなく、弦と木管でであり、落ち着いた中に明るさを兼ね備えた音楽です。それは第2楽章になりますともっと顕著で、静謐さの極地ともいえるかと思います。彼のピアノ協奏曲の中でも、これほど静謐で、透明感がある第2楽章も無いでしょう。涙さえ出てきます・・・・・

第3楽章はモーツァルトらしい軽妙な音楽になりますが、それでも落ち着きさがあります。何となく、いきなりどこか違う世界のような・・・・・

もっとも、この曲は戴冠式より3年後に成立した曲です。作曲に着手したのは諸説あって定まっていませんが、成立は1791年で、亡くなった年の年頭に完成しています。その年末に彼はなくなります。

彼がなくなった理由は諸説あるので、この曲を死と関連付けるのは早計だと思いますが、それでも、そんな予感をしていたかのような円熟味を感じてしまいます。もしかすると、働きづめで来ましたから、うつ等の症状が出ていたのかもしれません。精神疾患の疑いは以前より研究されていて、この曲はそんな一面が出た、とも考えられるかもしれません。それを如実に表すのが、第2楽章なのではないかと思っています。

それでも、この曲には明るさが貫かれており、決して死を考えていたわけではないと私は思っています。ただ、生活苦から死と隣りあわせだったということはいえるかもしれません。作曲家である前に、彼も結婚し子供がおり、一家の大黒柱としての役割がありましたから。そんな苦労が、この曲には反映されている・・・・・私はそう解釈しています。

兎に角、風格がある曲です。この時期はそのような名曲が数多く生まれており、経済的にはそれほど豊かといえるわけではなかったものの、彼の心はとても豊かであったことを裏付けます。

今日も、前回と同じ組み合わせを聴いています。ブレンデル、マリナー、アカデミーと、アシュケナージ、フィルハーモニアですが、どちらもすばらしい演奏です。テンポもほぼ同じくらいで、続けて聴きますとどちらがどうだかわからなくなることもあります。

この曲は久しぶりにモーツァルト自身が書いたカデンツァが残されており、どちらもそれを演奏しています。とても味のあるカデンツァで、派手さは無いですが、聴かせてくれます。それを、どちらも淡々と演奏することで、より味のある演奏になっています。

モーツァルトがたどり着いた、まるで「無」の境地のような曲です。


さて、今回でモーツァルトのピアノ協奏曲シリーズは終了です。次は、先日買ってきましたCDを3回にわたって取上げ(つまり、3枚買ってきたわけなのですが)、その後は、できれば同じモーツァルトの宗教曲、特にミサ曲を取上げたいなと思っています。もしかすると、気ままに他の曲を取上げるかも、知れませんけどね。