かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト ピアノ協奏曲第26番ニ長調K.537「戴冠式」

今日は、モーツァルトのピアノ協奏曲第26番「戴冠式」です。このタイトルは、実際に戴冠式(1790年レーオポルト2世)の祝賀会で演奏されたから名づけられたものですが、モーツァルトには二つ「戴冠」と名のつく曲がありますので、初心者の方は混乱することが多い曲でもあります。そのもうひとつは、ミサ曲ハ長調K.317「戴冠ミサ」です。こちらは、実際に戴冠式で演奏されたわけではないのですが・・・・・

前作の第25番から約1年3ヶ月経って作曲されており、すでにモーツァルトの人気自体は下り坂。まったく仕事が無いというほどではありませんが、それでもピアノ協奏曲を多作していた時期よりは確実に人気がなくなってきていた時期の作品です。それを意識したのか、かなり曲調的には短調への転調を抑え、ことさら明るくしています。この曲が作曲されたのは1789年2月24日とはっきり記録が残っており、戴冠式が1790年だったことを考えますと、決してこの曲は戴冠式のために書かれたというわけではないことがわかります。

特に、初演がはっきりとはしていませんが、1789年にドレスデンの宮廷でと考えられていることからも、使用目的が必ずしも戴冠式であったとは考えにくいのです。まったく意識していなかったかといえば、それは違うかもしれませんが・・・・・主調がニ長調なので。

少なくとも、そのころ生活の糧である「予約音楽会」が開けないほど、人気が落ちていたということだけは確かで、何かしら聴衆を意識した曲を書かなければならない事情があったのは確かです。

しかも、この曲は実は編成が小さめでも演奏できるようにもともとかかれており、それを補っているのがトランペットとティンパニで、そのことからも決して戴冠式用の曲ではないのです。フランクフルトでの祝賀会がやっとだった、というほうが正しいと思います。それほど、モーツァルトの人気は落ちていました。

しかし、そんな中でもこれだけの作品をたたき出す。その点がすばらしいのです。聴いてみれば、それはすぐわかるでしょう。第一楽章の中間部での上品かつ高貴な短調への転調のほかは、明るさを貫き、それでいて気品があります。第2楽章はまたかわいらしくかつ気品のある曲ですし、第3楽章もよく簡単な内容と批判されますが、しかしどうして転調がすばらしいのです。ここでも短調への転調は押さえ気味ですが、それでも短調へ転調しますと、身震いします。

この曲もカデンツァが無いのですが、それがまた聴き所です。今日は毎度おなじみのブレンデル、マリナー、アカデミーのほかに、アシュケナージ、フィルハーモニアも聴いています。ブレンデルは前のパッセージから展開するという、無難な方法を取っていますが、それが大成功しています。一方のアシュケナージは、まず違うパッセージから始まり、その後使われているパッセージへと転調するという方法を取っています。これもまたすばらしく、どちらも甲乙つけがたい名演です。

特に、アシュケナージ、フィルハーモニアはモーツァルトが取っていた「指揮とピアノ」という方法をモダン楽器でやられているだけに、初演時のアンサンブルを考える上で参考になります。オケはどうかわかりませんが・・・・・それはピリオド楽器のほうがもしかすると当時をよく表現しているかもしれませんが、私は必ずしもピリオド楽器だからといって当時に近いという立場ではないので、それには否定的です。勿論、まったく意味ないことではありませんが・・・・・やはり、編成面で。

フォルテピアノだったということをどこまで考え抜いているのかどうかが問題で、オケだけならそれは妥当でしょうが・・・・・

ゆえに、私は常々申し上げておりますが、大編成礼賛でもないですし、小編成であるべきだという立場でもありません。どちらもあり、の立場です。結局、演奏者が何を聴衆に伝えたいのか、その曲に対してどのようなアプローチをかけているのか、それで編成を決めればいい。そう思っています。

この曲が前の第25番よりも幾分小編成でも演奏可能であるということを考えますと、特にそれを感じるのです。大編成のはずの第25番がアカデミーでも問題なかったことから、そう感じます。

自分の耳こそ、基準なのです。そのことを、私たちは忘れてはならないと思います。