かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491

今日はモーツァルトのピアノ協奏曲第24番です。彼のピアノ協奏曲の中でも、主調が短調である2曲のうちのひとつで、短調はこれが最後になります。前作のニ短調よりも激しい曲調で、精神的に不安定なときには逆効果かもしれません。

音楽療法でも、この曲を取上げていることもすくないですし、そういう意味でも、彼のドグマが噴出している、そんな気もします。

それでも、曲全体としては美しさを失わず、理性が全体を貫いています。そこが、モーツァルトの音楽のすばらしい点でもあります。

第1楽章の特色としましては、4分の3拍子だということです。私も事典等を読み直すまで忘れていましたが、確かにこの曲は冒頭、ワルツのようなリズムから始まります。それが第3楽章にも表れていて、しかしどう考えても舞曲ではなく、むしろ激しい曲です。恐らく、その拍子がこの曲に理性を与えているように私には思えます。

4分の3拍子は西洋音楽において一番聖なる拍です。3拍子はキリスト教の三位一体にもつながり、昔から好まれた拍です。フリーメーソンの思想とも絡むかもしれませんが、そのあたりまでは事典には言及がありません。

第2楽章はやさしい音楽になりますが、第20番に比べますと、癒されるような清らかさがありません。もっといろんなものを含んでいるように思います。単純に長調だといえるほど明るくはありません。

全体的に激しさを増しているのに、第20番と比べますと理性を感じます。やはり、4分の3拍子のなせる業でしょう。

事典によりますと、この曲には大英博物館に直筆稿が残っているそうで、推敲の跡が見て取れるそうです。天才モーツァルトですら、推敲したのか・・・・・

あるいは、演奏時に訂正を書き加えて行ったのか、と述べられています。私としてはそちらを支持したいです。それは、私もまったく同じケースに合唱団時代遭遇したことがあったからです。音楽監督自身の作品を歌うことになって、その作品を室蘭と川崎で歌ったのですが、どちらの場合でも訂正が直前に入りました。作曲家というのはそういうものなのです。

最後までいいものを提供したい。それが物を作る人の思いなのです。私も父がエンジニアだったこともあり、ものづくりのそういう思いはしつけられました。

そういう点から、またこの曲を眺めますと、この曲にもカデンツァが残されていません。恐らくモーツァルトは作曲したと思うのですが、もしかすると演奏会当日に完成し、その後散逸した可能性もありますし、私としてはそのほうが可能性が高いと思っています。

この曲も初演の様子がよくわかっていない曲のひとつです。編成は帳面に記録されていますが、どこで演奏されたのかはよくわかっていないのです。ブルク劇場であるらしい、というところまでです。

そういう状況ですから、当然この曲はピアニストがカデンツァをつけることになります。私が聴いているのは前から持っている、ブレンデル、マッケラス、スコットランド室内管弦楽団です。ブレンデルは第1楽章は直前のフレーズを使い、そこからたくみに展開してゆきます。しかも打ち込み同然でオケの終止と同時にカデンツァへ突入し、この曲の激しさを表現しています。

そしてさすがなのが、それが全体として違和感が無いことです。他にはピリオドと、以前マリナーと録音したブレンデルの演奏がありますが、やはりピリオドはフレーズを使いつつも開始はまったく違うフレーズから開始して、最後オケにつなげようとしているので、違和感を感じます。

やはり、そのあたりにモーツァルトの和音をどれだけ研究しているのかの差が出るように思います。そういう意味では、このあたりの作品を引くということは、ピアニストにもかなりのプレッシャーであり、また名誉なことだと思います。

確か、ナクソスで全集が出ていましたが、最初から第20番や24番を録音していなかったように記憶しています。それは、使っているピアニストがそれだけの実力を持っているのかどうか、初めから判断できなかったためではないかと、私は想像しています。でも、それが欲しかったんですよね・・・・・

今、ナクソスは古い録音はエイベックスへ売り渡しているので、今はもうライブラリにない曲もあります(第九などがそうです)。どうやらモーツァルトのピアノ協奏曲もその対象になっているらしく、店頭でも見かけることが難しくなりました。ですから、私は図書館で借りることにしたわけです。

結果的には、それが良かったと、今となっては思います。音とび等で苦労もしましたが・・・・・

皆様、図書館のものは大事に使いましょう。