かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ブレンデル/マリナーのモーツァルトピアノ協奏曲2

今回の県立図書館所蔵CDのコーナーは、ブレンデルとマリナーの名盤第2回です。モーツァルトのピアノ協奏曲の中でも白眉である、第20番と第21番です。

第20番はモーツァルトのピアノ協奏曲のなかで初めて出てくる短調の曲であるわけですが、その表現力がピアニスト、オケとも抜群です。

この第20番は、私が最初に聴いたモーツァルトのピアノ協奏曲で、しかもそのピアニストがブレンデルでした。マッケラスと収録した新全集の、確か一番最初のものだったと思いますが、差それがあるにも関わらずこの旧盤を借りてきたのは、やはりその演奏がアカデミーであるということが一番大きいと思います。

一方、第21番は全く初めてで、まあ、第20番は「ついで」だったのです。しかし、せっかく全集としてまとめようと思っていたわけですから、その全集に入れるのは旧盤にしようとしたわけです。聴き比べる楽しみが増えますからね。

この旧盤の特徴は、オケが温かいということです。この第20番もかなりモーツァルトのセンシティヴな点が表面化しているのですが、それでもオケの音色は温かいのです。特に長調へ転調した時にそれが顕著で、この曲はこれほど温かいものだったのかと思わざるを得ません。

特に第3楽章最終部分でそれが顕著で、この辺り新旧どちらが好きなのかは人それぞれだと思います。私はどちらかといえば新盤なのですが、でも、この旧盤の温かい音色も好みです。新盤は短調は漆黒の闇が広がっている感じで、冷たいという形容は当たらないと思いますが、長調部分は温かいというより、さわやかです。抜けるような青空というか、そういう感じです。

第21番は静かに始まったかと思えばものすごい上昇音形が始まりますが、それが気分を高めてくれます。絢爛豪華といいますか、そんな感じです。かなりヴィルトォーソしている感じもあります。たぶん、このあたりの作品が演奏者を惑わすのでしょう。これを持ってモーツァルトがロマン派と同じような作曲をしているとみるべきではないのではと私は思っています。

確かに第20番からモーツァルトのピアノ協奏曲はその姿ががらりと変わるといってもいいと思います。そのせいなのか、この第20番からしばらくカデンツァが残されていません。つまりピアニストが自分で作曲しなければいけないわけですが、そそのカデンツァが20番、21番とも秀逸です。ヴィルトォーソしていてなおかつ、オケと会話するその演奏は誠に白眉です。

協奏曲の歴史をたどりますと、やはり古典派とロマン派、さらに現代とでは同じようで違います。その違いを演奏者がどれだけ認識して演奏するのか、その結果がもろに出るのがモーツァルトであるような気がします。たとえば、第20番の第3楽章ピアノがpであればきちんとオケも引続いてpなんですね。この点は重要だと思います。ただ対等であるというのではなく、お互いが気を遣いあっているというものなのです。

これが後期ロマン派になりますと、いざ、神妙に勝負!となります。この差は天と地ほど大きいと思います。たぶん、がーディナーはその呪縛に陥ってしまったと思われます。ですので、今であればピリオドで名演がきっとあるはずです。

しかし、アカデミーのアンサンブルは秀逸です。確かに、これならばもう一度マッケラスと一緒にやらなくても・・・・・と思いますが、おそらくブレンデルが納得しない点がここだろうなあと思うのが、第20番冒頭の音の切り方です。ちょっとだけ伸ばしすぎと私は思うのです。このあたり、マッケラスならばバサッと切ります。いいホールでしたらそれでも十分響きますし、無理やり伸ばす必要はないと思います。

そこがおそらくブレンデルの美意識と相いれなかったのかもしれません。十分名演なのに、なぜ全集をもう一度収録しなおすのか・・・・・おそらく、そんな些細ですが、繊細な点を追求したからこそ、マッケラスと一緒に仕切りなおそうとしたのでしょう。この旧盤を聴きますと、また新盤の良さも際立ってきます。



聴いている音源
ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト作曲
ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466
ピアノ協奏曲第21番ハ長調K.467
アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)
サー・ネヴィル・マリナー指揮
聖マーティン・イン・ザ・フィールズ教会アカデミー(アカデミー室内管弦楽団