かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488

今日は、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番です。この曲は次の第24番とほぼ同時期に完成し、予約音楽会で披露されたであろう曲です。というのも、この曲だけは初演の様子が書きとめられていない曲です。初演の編成は記録でわかるのですが、時期が特定できないのです。このあたりから、そんな曲がまた増えてきます。

まず、第1楽章の開始がとてもソフトです。そこからいきなりフォルテとなって堂々たる音楽が始まります。もう、初期のサロン的な音楽は影を潜めます。勿論、平明な部分はありますが、転調はドラスティックですし、聴き手に息つく暇を与えず、しかしその割には聴いた後の落ち着いた感情というものがあるというすばらしさです。

その第1楽章も静かに終わりますと、短調の第2楽章が始まります。この後期になって、短調を使うことが多くなっていますね。そこに、モーツァルトの成長を見ることができます。

実は、演奏するほうでも短調というのはとても神経使うのです。私はアマチュア合唱団での経験で語らせていただきますが、短調は暗いからこそ、声の質としては明るく歌わなければきれいに聴こえません。それがモーツァルトでは顕著なので、ものすごく神経を使うのです。繊細な音楽といってしまえば簡単ですが、演奏するほうは高いレヴェルを要求されます。

だからこそ、この時期モーツァルト短調を作曲しているというのは、彼の自信の表れと、それだけの成長を見ることができるのです。

そういう意味では、ベートーヴェンはとても幸せな人だったといえるかと思います。モーツァルトというとてもすばらしい短調作曲家がいたわけですから。彼の曲を研究することで、やがてベートーヴェンモーツァルトを超えてゆきます。私はその結果として、短調交響曲「第九」が完成した、と考えています。

第3楽章は一転平明な長調。しかし、それもシンフォニックで、ピアノも自在に動き回り、堂々たる音楽です。高貴さも加わり、単に明るいだけでなく、高みへと登ってゆく、そんな部分が見られます。聴いていて最後まで飽きさせません。

事典等を読んでみますと、この曲は絶頂期と違い素直な個性的な部分が随所に出ていると出ていますが、そんなことは聴きながら読んでいただけば結構です。兎に角聴いてみれば、楽しく前向きな気分になります。この曲には断片もかなり残っていて、モーツァルトが試行錯誤した跡が見て取れます。でも、私はやはり現在残っている音楽が一番すばらしく聴こえます。それがモーツァルトの結論だったわけでもありますし、うなってしまいます。

モーツァルトのピアノ協奏曲はほとんど図書館で借りてそろえたわけなのですが、その中でもほとんどがぺライアかブレンデル、そしてフォルテピアノなのですが、この曲のモダンだけはホロヴィッツで、オケはスカラ座です。どうしても音とび等の関係でこの演奏しかなかったですが、ホロヴィッツカデンツァもすばらしいです。この曲もモーツァルト作曲のカデンツァが残されていないので、演奏者がカデンツァをつけるわけですが、それがとても自然です。

ホロヴィッツの場合、既にある旋律から展開してゆきます。それもひとつの方法です。それがゆえに不自然さがすくないのだと思います。ブレンデルのすごさは、まったく違う旋律を提示しておいて、それが不自然ではない点です。ただ、ブレンデルの方法はやはりリスクがありまして、中には「ちょっとこれは無理があったんじゃない?」って部分もあることです。しかし、はまればすばらしいです。

そういう意味では、ホロヴィッツはとてもオーソドックスに向き合った、といえるかと思います。それは必ずしもモーツァルトらしくないかもしれませんが、少なくともモーツァルトが作曲した旋律から展開するわけですから、まったくのうそでもないわけです。むしろ、モーツァルトが作曲した旋律から展開するわけですから、和声学の基礎がしっかりとしていないと難しい作業でもあるのです。そしてそこに、モーツァルトの音楽の醍醐味があるのです。