かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K.482

約1週間ぶりのご無沙汰です。まずは、近況から。

週末は仕事のあと、紀伊半島へ旅行へ行きました。那智の滝を見学し、その後、我家のルーツであろう大神神社へ。強行軍でしたが、楽しかったです。

そんな後に、今日取上げます第22番を聴きますと、またすがすがしい気分になります。

まず、第1楽章は「はて、どこかで聴いたことがある開始だぞ」と思いつつ、堂々たる音楽が始まります。開始のユニゾンがまた堂々としていて、この時期の充実振りを彷彿とさせます。

ただ、この時期には既にモーツァルトの「ブーム」は去っており、人気は下降線です。ですので、事典には明るくて親しみやすい調への復帰とかかれてありますが・・・・・

その前の記述には、「クラリネットの使用」とはっきりとかかれてあります。それに、音楽的には前作以上に深くなっていて、多分映画「アマデウス」を見たことのある方はその大人な音楽に度肝を抜かれるのではないでしょうか。

ソナタ形式も堂々としていますし、もうベートーヴェンの協奏曲と聴き比べても遜色ありません。それに、何となくハイドンの音楽すら感じるのは私だけなのでしょうか。

ハイドンもこの時期既に時代遅れになっているのに・・・・・

つまり、単にウィーンっ子の趣向に合わせたのではない、と私は感じています。ザルツブルク時代に、ミサ曲で始めた創意工夫がこの時期まで続いている。そう考えてもいいのではないかと思います。

それがどういうことかを語りますと、彼のミサ曲を語らないといけないので、ここでは避けます。

第2楽章がその色をさらに濃くしています。ハ短調の音楽がゆったりと流れてゆきます。そう、ベートーヴェンの運命で主調である、ハ短調なのです。ここでも、短調が使われていることを考えると、単に聴き手の趣向に合わせたのではないことがわかります。短調が好まれるようになるのは、ベートーヴェンの時代まで待たなくてはなりません。

そんな中での短調使用。一筋縄ではこの曲を評価できないと思います。ただ、この短調がこの曲を高貴なものにしています。

第3楽章はピアノが活発に動き回り、楽しい曲です。短調から一転、まるでサロンのよう。この転調がたまりません。ただ、この調が専門家をして回帰だと言わしめる点なのでしょうが・・・・・

モーツァルトの複雑な精神構造から見ますと、そんなに単純かなあと思います。彼は単純なようで意外と複雑な人です。専門家ならそれは知識として知っているとは思うのですが・・・・・

この後期の音楽はそういう複雑な部分が、むしろストレートに表現されている、そんな気が私はするのです。だんだんシャイなモーツァルトが自己表現を上手にやるようになってきた、そんな感じを受けます。ただ、そのために聴衆は離れて行ってしまった・・・・・アーティストには良くあることです。ただ、パトロンには気に入られなければ生活できない。そのための表現方法を身につけた。そんなように考えてもいいのでは?と思います。