今日は、モーツァルトのピアノ協奏曲第18番です。この曲も、ともすれば彼のピアノ協奏曲の中で埋もれてしまいそうな曲ですが、静かな開始からドラマティックに展開してゆく構成は、すばらしいです。特に、聴き所は第1楽章と第2楽章です。
第1楽章は、カデンツァ。オケの終止の前から半ば打ち込み状態で入る開始は聴くものを引き込んでゆきます。開始の静けさは一体どこへやら。終わってみれば華麗な音楽に酔いしれています。
そして、第2楽章は、その調性が短調だということです。ト長調で書かれています。短調を使うのは随分久しぶりで、何か彼の身におきたといえるでしょう。事典を見てみる限りにおいては特に言及が無いのですが、父のレーオポルトが初演を聴きに来ていることから、父との関係で何かあったのではないかと私は想像してます。兎に角、父親との関係はベートーヴェン以上にモーツァルトの精神に影響をおよぼしていますから、見逃せない部分だと思います。
今後の研究に期待したいですね。特に、中間部の短調同士の転調は凄みすらあり、以後の短調協奏曲や、交響曲第40番などといった曲を彷彿とさせますから。事典では「フィガロの結婚」との関連が述べられています。実は私はあまりオペラを聴かないので、それは本当かどうかを述べることはできません。いつか、検証してみたいと思っています。
モーツァルトはある主題をほかの曲に使うなどは結構普通にやっていますし、他の曲との関連は充分あることです。しかし、できればなぜここで短調を使っているかまで言及して欲しかったと思うのです。おそらく、まだそこまでは研究が進んでいないものと私は判断しています。
この曲は、ウィーンの女性ピアニスト、マリーア・テレージア・フォン・パラディスのために書かれています。其の割には、前回取上げました第17番のようなすがすがしさは影を潜め、華麗さとすばらしい陰影が前面に押し出されています。どうやらこのピアニストがマリア・テレージアから年金を受け取っていたことが関係しているように私には思います。実力派女性ピアニストで作曲家だったというだけでなく、彼女が盲目というハンデを追っていたこともえいきょうしているように思います。
特に、第3楽章はそれを証明するかのように堂々としています。そして、この楽章だけはすがすがしさも最後にあります。この時期はモーツァルトの絶頂期でもあるので、気力も充実していたせいもあるのでしょう。
きいている演奏はブレンデル、マリナー、アカデミー室内です。このコンビは実ははじめ避けていたのですが、図書館で借りるようになって、特に18番でしかもモダンはこれしかない状態だったので、仕方なしに借りたのですが・・・・・
その先入観が間違いであったことを教えてくれた演奏でもあります。
すでに、ブレンデルは既に書いていますが、マッケラス、スコットランド室内で持っていましたから、ピアノについてはさほど問題にしていなかったのですが、やはり指揮者とオケです。しかし、実に私好みな演奏ですし、そしてそれは特に他の方にお勧めしてもなんら問題ない演奏だったので、余計びっくりしました。
実は、其の前にピリオドではこの曲をきいていますが、このコンビはそのいわゆる専門家が「理想的」というピリオドの演奏を吹き飛ばしてくれます。このコンビで聴きますと、ピリオドでの演奏は果たして当時をきちんと反映しているのかどうか、考えさせられます。
もしかすると、それはピアニスト・ブレンデルの思いなのかもしれません。ブレンデルはオケと指揮者を選んでいるようですね。それは、自らが思い描くモーツァルトの理想があるからでしょう。しかし、其の理想が独善に陥らず、他のモダンの演奏と比べても差が無い、つまり奇をてらっていないという特徴があります。そこに、逆に彼が言いたいことが凝縮されているように、私には思えるのです。