かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト ピアノ協奏曲第19番ヘ長調K.459

今日は、モーツァルトのピアノ協奏曲第19番です。別名「第2戴冠式」。じゃあ、第1戴冠式ってあるの?といわれそうですね。勿論あります。第1はつかずに「戴冠式」とついている第26番があります。それは、また第26番のときにお話ししましょう。

さて、この曲はある意味、その第2戴冠式と言われることが特徴のように言われてしまう曲なのですが、とてもシンフォニックで、初期のサロン的な雰囲気はかすかに残るだけ。第1楽章のリズムに偲ばれるのみです。構成的にはソナタ形式も堂々としたものになっていますし、木管楽器の使い方もさらにすばらしく、それがゆえに第2戴冠式と言われる由縁でもあります。

正確に言えば、第26番「戴冠式」とかなり構成が似ていることがその原因でもありますが、私としてはあまりこの「第2戴冠式」という言い方が好きではありません。むしろ、それは第27番の方がふさわしいと思っています。それについては、「また別の話」ととれいん工房さんのように逃げておきましょう。第27番の時にお話しします。

私が第2戴冠式という名称がいやな理由は、第2楽章にあります。静謐で、しかも美しく、さらにすがすがしさも感じるこの楽章は、あまりにも戴冠式という華々しい舞台には似つかわしく、もっと個人的な感情がそこには流れているように思います。しいて言えば、天皇陛下即位の礼なら、合いそうですが・・・・・でも、今上陛下の時には演奏されなかったと記憶しています。殿下のときなら、ありそうですね。オーケストラ、特にモーツァルトベートーヴェンがお好きですから。

特に、後半部の短調へ転調する場面は、戴冠式というより、もっと彼の心の奥の、鬱屈したものが吐露されているような気もするのです。勿論、彼はそんなことおくびにも出しませんが・・・・・しかし、それゆえ短調が主題となると、まるでドグマが噴出したような音楽になります。それにつきましては、次の曲で述べましょう。

第3楽章は、バッハやハイドンの影響を受けているといわれますが、一度きいてもそれはピンとこないでしょう。しかし、よく聴いて見ますと対位法的な処理がなされていることに気がつきます。

もともと、彼はJ.C.バッハ(以前も取上げましたが、大バッハの末っ子です)に師事していたのですから、別に対位法を知らなかったわけではないはずです。ただ、時代的にJ.C.バッハからはソナタ形式を主に習ったわけで、対位法はあまり習わなかったため、この時期に大バッハや、ヘンデルの音楽に触れたことは大きかったでしょう。ただ、対位法については決してこの時期に知ったわけではないということは述べておきたいと思います。ともすれば、この時期に彼が知ったように書かれていることが多いので・・・・・・

それは、ザルツブルク時代の宗教曲を聴いてみればわかります。ただ、この時期に大バッハヘンデルの音楽に触れたことは、後にレクイエムを作曲するときに花開くことになります。面白いのは、それをモーツァルトへ教えたのは、C.P.バッハだったということです。この作曲家は大バッハの第四子で、つまるところJ.C.バッハの兄に当たります。バッハのストイックさから言えばベートーヴェンへとつい考えてしまいますが、その間にモーツァルトが挟まるわけなのです。

大バッハの音楽を、息子二人を挟んで、モーツァルトが受け継ぎ、それがベートーヴェンへとわたってゆく。しかも、彼らはバッハと違い、カトリックだった・・・・・ここが、ヨーロッパの面白い部分ですし、私達は注目しなければならない部分だろうと思います。いつから、人間はつまらない些細な差で争うようになったのでしょう。大義のためなら、宗派を超える。そんな大バッハの精神が脈々と受け継がれていることを、ここにはっきりと見て取ることができます。

しかも、この曲においては、それは既にモーツァルトの曲として自分のものとしているという点です。私はこのことこそ、この曲の聴き所であると考えます。それを、なんとも華麗で、しかものびのびとした音楽で表現しているのだろう、しかも、声高に主張することも無く・・・・・と考えると、彼のこの曲にこめた思いを感じざるを得ないのです。