かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト 2台のピアノのための協奏曲変ホ長調K.365(316a)

さて、モーツァルトのピアノ協奏曲シリーズも二桁の番号へ入りました。今日は第10番である、2台のピアノのための協奏曲です。

この曲が作曲された前後は、このような複数のソリストを要するコンチェルトを作曲しています。クラヴィーアとヴァイオリンのための協奏曲K.Anh.56(315f)とヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K.364(320d)です。

実は、この二つを紹介していただいたのは、もう9年位前になりますでしょうか。とあるMLで、そのオーナーの方からでした。その時買ったCDにこの第10番を間に挟む二つの二重協奏曲(正確にいえば、ひとつは協奏交響曲ですが)が入っています。実は、そのときからこの第10番は欲しかったものだったのです。

それがようやくかなった、ということになるかと思います。いろいろ回り道をしましたが・・・・・でも、その回り道のおかげで、モーツァルトの曲への理解は深まったような気がします。

この曲はもう堂々とした古典派のコンチェルトであり、ハイドンの影などどこへやら、です。ソナタ形式もしっかりしていますし、とても美しい形です。音楽もとても美しいですし。非の打ち所がありません。しいて言えば、第2楽章なのかもしれません。

内容としては、私はヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲を髣髴とさせると思っています。もしかすると、同時進行で作曲されたかもしれませんね。成立年代には諸説あり、1775年から1779年まで幅広いのですが、定説は1779年です。この時期はミサ曲でも戴冠ミサやミサ・ソレムニスといった曲が生まれています。ちょうどモーツァルトザルツブルクを去ろうと決めた時期でもあり、自我の発達や自信の深まりが見て取れる時期です。実際、この曲がザルツブルク時代最後の協奏曲になります。

私はこの時期のモーツァルトの作品ってすきなんです。この2台のためのもそうですし、協奏交響曲もそうです。また、ミサ曲でも、戴冠ミサや、ミサ・ソレムニスも大好きです。勿論、後年の作品もすばらしいのですが、私はこの時期のモーツァルトにとても共感を覚えるためか、この時期の作品がとても好きです。その次が晩年のレクイエムや、交響曲第40番・41番、「魔笛」、ピアノ協奏曲第20番・24番といったところになります。

この曲も初演の様子がよくわからない作品ですが、モーツァルトと姉ナンネルとの競演を想定して作曲されていると言われます。確かに、2台のピアノが対等に渡り合うのを聴きますとそんな風にも思えてきます。これは「モーツァルト事典」にも記載があることなのですが、カデンツァも対等に作曲されていますし、姉ナンネルが結構なピアニストだったことを考えましても、そういうモーツァルトの意図を素人ながら私も感じることができます。

でも、そのせいか、やはりこの曲もピリオドよりはモダンに軍配をあげてしまいます。やはり、弦楽器の数をピリオドの場合調整する必要があるのではないかという気がするのです。現代はオケの人数は70名くらい。アマチュアですと、技量の問題があってもう少し多いでしょうか。しかし、モーツァルトが作曲した当時は、恐らく20〜30名くらいではなかったかと思います。しかし、管の編成はほとんど変わっていませんから、当然弦の数が決定的に違うということがいえるかと思います。

となると、歴史学における史料批判ではありませんが、楽譜に対する批判を行うべきだと、私は聴くたびに思うのです。ピリオドを使うこと自体、私はいいことだと思います。しかし、現代の編成のまま行っていないのか、検証する必要はあるように、わたしには思えます。交響曲で大丈夫だからと、協奏曲でもやるのは、どうかと・・・・・・それは果たして、ピリオド楽器を使う本来の目的を果たしているのか、と疑問に感じざるを得ないからです。

それを強烈に感じましたのは、実はmixiでさんよう氏が主催するコミュ「クラシック同時鑑賞会」でこの曲が取上げられたときです。そのときの主催は副管理人のクラシカリスト氏でしたが、ご夫妻のピアニストの息の合ったアンサンブルとオケとのバランス。これを聴いたときに、「果たして、ピリオド楽器ではこれほどバランスがいい録音はめったにない」と感じたのです。私が今聴いていますのはアカデミーですから、室内オケです。しかしそのときはフルオケでした。それでピアノはまったく負けていません。

協奏曲において、主役はオケではありません。ソリストなのです。ピアノ協奏曲なら、当然ピアニストなのです。それが小さな音であるのは奇異に感じます。当時のコンサートではおしゃべりだって普通です。そんな中で演奏するわけですから、当然ピアノがオケに負けるなどということはあってはならないのです。また、1000人も入るようなホールでも演奏していません。そういったことも考慮に入れる時期が、私には来ているように思うのです。

もちろん、録音エンジニアの腕の問題や、編集の問題もあります。しかし、それを考慮に入れても、この印象が変わることはありません。やはり、モーツァルトはこの時期からピアノの可能性というものまで考慮に入れて作曲していたようにも感じるのです。もしそうでないとするならば、やはり弦を「抜く」という「実験」をすべきだ、と思います。恐らくそれで片がつく、と私は思うのです。