かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト ピアノ協奏曲第9番変ホ長調K.271

今日は、モーツァルトのピアノ協奏曲第9番です。形式的にもほぼ整ったと言ってもいいのではないでしょうか。

彼のピアノ協奏曲は、楽章がつながっているものがひとつもないので、ある意味協奏曲の基準を作り上げたと言ってもいいのではと思います。それを完成形にもって行ったのが、ベートーヴェンの5つのピアノ協奏曲のように思います。

この9番は、聴き所が満載です。第1楽章のユニゾン、第2楽章の憂いを帯びた短調(多分、自身のコンチェルトでは始めての短調だと思います)、そして第3楽章のすばらしい転調。最後まで飽きさせません。

この曲から、私はひとつ階段を登ったような感じを受けます。前作第8番と比べまして、その深さがぜんぜん違います。それは特に上でも述べましたが、第2楽章での短調の採用や第3楽章の転調の深さです。それは事典でも触れられており、私も最もだと思います。特に感じますのは、この記載です。

「第1楽章は、冒頭からすぐに独奏クラヴィーアが主題に関わるという型破りの方法で始まる。この様な開始はモーツァルトの協奏曲には後にも先にもないし、類似した方法といえば、ベートーヴェンのピアノ協奏曲(筆者注:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」を念頭に置かれていると思います)まで待たなければならないのである。」(東京書籍「モーツァルト事典」398ページ)

その通り、見事なつかみです。ピアノもオケと堂々と張り合っていますし、このあたりから内容的にはハイドンよりもベートーヴェンに限りなく近くなったような気がします。音楽的には勿論モーツァルトですが・・・・・

ですので、ピリオド楽器ではやはり非力に感じます。しかし、そうは聴こえない、健闘している部分もあります。この曲も初演の様子がわからないのですが、モーツァルト自身が何かピアノの非力さを感じて、工夫したような気もしないわけがないのです。譜面を見てみないとなんともいえませんし、このあたりは私も読めるところまではさすがに行かないので確かにそうだとはいえないのですが。

やはり、私は当時の編成上、恐らく弦楽器の数を調整していたのではないかという気がします。楽譜には管楽器の編成は見ればすぐ何本かわかりますが、では弦楽器は何本かと言うのはどの楽譜を見てもわかりません。そこはもしかすると、アバウトだったのではないかという気がするのです。

この曲がザルツブルク時代最後のピアノ一台のための協奏曲になります(本当の最後は次の10番になっている2台のための協奏曲です)。そんな時期的なこともこの曲には反映されているのかもしれません。この時期にはミサ曲も深いものが残されていますし、モーツァルトに自我が目覚めてきた時期に一致します。また、コロレド神父の課した課題を達成しつつある時期にも重なり、そのような精神的な成長の跡をこの曲でも見ることができるように思います。

そういう意味では、ミサ曲も是非聴いて欲しいと思います。確かにミサ曲はキリスト教の音楽ですが、彼が乗り越えた困難を聴くのに最も適しているのは、実はミサ曲なのです。ぜひとも、一度はどの曲でもいいので、モーツァルトのミサ曲を聴かれることをお勧めします。いずれ、ミサ曲も同じ形で取上げたいと思っています。宗教音楽を全て網羅しようとしますと大変なので、ミサ曲だけに絞りたいですね。それだけでも、モーツァルトの音楽に対する見方ががらっと変わると思います。

この曲からは、そういう時期のモーツァルトの自信を感じることができます。神童から、大人の作曲家への脱皮。そんな作品です。