神奈川県立図書館の所蔵CDをご紹介するこのコーナー、モーツァルトのピアノ協奏曲のピリオド演奏をご紹介するシリーズも最終回になりました。今回は第9集で、収録曲は勿論第26番と第27番になります。
第26番「戴冠式」はこのピリオドのほうがむしろ戴冠式というにふさわしい堂々とした演奏ですが、やはりクラヴィーアが非力なのがどうしても気になります。ただ、モダンで感じるピアノになる部分の淋しさは感じることが少ないように思われます。
この点は、聴いていて面白い部分です。モーツァルト事典などですと、この2曲ともちょっと物足りないように書かれているのですが、ピリオドですとそれをさほど感じないのは面白い現象です。
第27番もそうです。特にその特徴が出るのは第2楽章。あのモーツァルトの死期すら予感させる、美しすぎる音楽はモダンですと落涙するくらいですが、逆にピリオドですとそこまで琴線に触れませんから、逆に聴きやすさすら感じられます。この曲はこんなにももっと明るい曲だったかな、と。
どちらがモーツァルトの本心に迫っているかは、私にはわかりません。しかし、いろんな感情が渦巻いているのがモーツァルトの音楽というもの。特にこの時期に作曲されたきょくはどれもそんな音楽ばかりですし、それを考えますと、どちらでも正しいアプローチなんだろうなと思います。
でも、結局オケとのアンバランスは解消されないまま、最後を迎えています。確かに、ご指摘があったように、バランスが悪いですね。演奏としてはそれほど悪くないと私は思いますが、その点が評価を下げてしまっているだけでなく、「モーツァルトの時代を表現するにはピリオドは不適」という烙印を押してしまった結果になってしまったように思います。
実際、例えば交響曲では全く私はそんなことを感じていません。詳しくはまた交響曲を語るときに申し上げるつもりですが、この全集だけでモーツァルトの音楽はピリオドでは表現できないというのは私には言うことは出来ません。明らかにこれはオケとのバランスが悪いからであり、モーツァルトがそれを承知で作曲したとは到底思えないからです。なぜなら、彼もピアニストだったから・・・・・
それを考慮しますと、私はもっといろんな演奏をピリオドで聴くべきだ、というのが今の結論です。
モダンだけでなく、できればピリオドでも聴いてみるべきである、と今は考えています。この演奏が本当のモーツァルトの音楽とはいえません。勿論、それぞれの楽器の音は当時を偲ばせるものであるとは思いますが、総括しますと、私はもっと素晴らしい演奏がピリオドであるはずだ、それはモダンに引けをとらないはずであると思っています。
そう考える理由は、実はモダンの全集というのは今あまり売られていないということにあります。実際、私もモダンを集めたときには、いわゆる全集はなくて、寄せ集めになってしまいました。でも、ピリオドなら未だに輸入盤でも存在します。
これはいかなる理由なのか、もっと聴き込む必要があると、私は思っています。その目を開かせてくれたという意味では、この全集の存在価値というのは未だにあるのかな、と思います。だからこそ、図書館に所蔵されている・・・・・私はそう思っています。
聴いているCD
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲
クラヴィーア協奏曲第26番ニ長調K.537「戴冠式」
クラヴィーア協奏曲第27番変ロ長調K.595
マルコム・ビルソン(ピアノ)
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
イングリッシュ・バロック・ソロイスツ