かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト ピアノ協奏曲第5番ニ長調K.175

さて、今日からモーツァルトです。今までベートーヴェンを中心に取上げてきましたが、私が好きな作曲家で集めているもう一人にモーツァルトがいます。

彼の音楽のすばらしい点は、なんと言っても転調のすばらしさにあります。形式と言う点から言いますと、特に初期の作品ではまだハイドンの時代が色濃いのですが、それでも転調のすばらしさは言いようがありません。

そして、和音の美しさ。ブルックナーが天上の音楽だとすれば、モーツァルトは天使です。どちらもすばらしい音楽を生み出していますが、これからしばらくはモーツァルトの作品、特にピアノ協奏曲を取上げて行きたいと思います。

さて、まず取上げますのは、第5番です。え、1番じゃないの?と思われても仕方ありません。しかし、実はこの5番こそモーツァルトのピアノ協奏曲の第1作目なのです。

実際、モーツァルトにもピアノ協奏曲第1番があります。すばらしい曲ですが、しかしそれは他人の作品をアレンジしたものなのです。第1番から第4番まではアレンジです。と言ってもそのアレンジがまたすばらしいのですが・・・・・

できれば、第1番から第4番までを聴いた上で第5番を聴くのをお勧めします。恐らく、第5番を聴いた時の驚きは計り知れないと思います。

それほど、この作品は形式的には未熟であっても、音楽性は他の作曲家とは既に違うことが良くわかるのです。がらっと変わると言っても過言ではないでしょう。なぜモーツァルトの音楽がこれほど残ったのか、よくわかる事例だと思います。

私たちは彼の音楽を当然のこととして受け入れ、聴いています。しかし、当時の音楽を彼の第1番から第4番を聴くことによって思いをはせるとき、当時の人の衝撃が今でも伝わってくるのです。それは1番から5番までを聴くことによってよくわかるのです。

形式的にはすでに3楽章で、ソナタ形式も備わっていますが、全楽章ソナタ形式で、さらに繰り返しがない(私が聴いた盤がそうなのかもしれませんが、少なくとも私が持っている2つは繰り返しなしです)という点から、まだソナタ形式の完成度は低い作品です。しかしながら、そのはつらつとした明るい音楽は心がぱあっと明るくなります。その上で適度な緊張感もあり、転調も自然です。ため息しか出ません・・・・・

私はクラシック初心者には必ずモーツァルトを勧めるのですが、その理由が「自然な転調」なのです。恐らく、他のジャンルを聴いている人でもモーツァルトなら自然に入っていけるでしょう。これがベートーヴェンですと特に交響曲はやっぱり敷居が高いのですね(それで何度断られてたことか・・・・・いや、学校教育にも一因があるんですけどね)。すばらしすぎるのです、ベートーヴェンは。

勿論、じゃあモーツァルトの音楽は低俗だと言いたいのかといえば、その反対です。ベートーヴェン同様すばらしいのです。何よりも、ベートーヴェンが研究した作曲家ですから。まあ、確かにベートーヴェンが毛嫌いした曲(特に、オペラ)もある作曲家ですが・・・・・

モーツァルトはその「自然さ」が、とりわけすばらしいのです。音楽が普通に流れているのに、心に染み渡る。それは何度聴いても変わりません。

この第5番も、すでにハイドンを超えています。明るさという点ではハイドンも決して負けていませんが、転調はハイドンよりすばらしいです。

この曲から、私はモダン楽器とピリオド(古楽)と二つ音源を持っていますが、はっきりとした違いはピアノです。それを聴き比べますと、すでに彼の作品はフォルテピアノでは表現し切れていないのではないかという気がしてならないのです。ですから、いつもその曲を聴きながら書いていますが、今回はモダンだけ聴いています。交響曲に関しては私はピリオド楽器容認派(BCJが好きなくらいですから、アレルギーはありません)ですが、さすがにピアノ協奏曲となると、話は別になります。

演奏そのものは、実はこの5番に関してはピリオドのほうがすきなのですが・・・・・

特に、音の大きさがオケに負けているような気がします。それは全曲聴いても変わりませんでした。もしかすると、まだまだ現代人の私たちは古楽器での表現の仕方が当時の人に比べて未熟なのかもしれません。

え、現代人のほうが技術は上でしょって?はい、確かに演奏技術自体は上です。私が言いたいのは、ピリオド楽器を上手に使いこなせているのかどうか、です。例えば、ピアノが大きな音を出せないのから、オケが配慮しなければいけません。フォルテの指示でもピアノで引くとか、それができないなら編成を小さくするとか・・・・・

この5番に関しては、音域の関係からフォルテピアノではなく、オルガンを使ったのではないかとも言われています。そういう点などを総合すると、私は必ずしもピアノ協奏曲においてはピリオド楽器を使うことは適当ではないのではないか、あるいは当時の演奏を伝えるのにもしかするとピリオド楽器は適していないのではないかとさえ思うのです。

この作品は初演の様子をうかがい知ることができません。つまり、どのような場所でどのような編成で演奏されたかわからないわけです。事典では交響曲で室内オケとフルオケを比べてその批判がなされていましたが、私はまったく同じ観点から、ピリオド楽器礼賛を諌めたいと思います。その演奏が好きであるからこそ、もっと使用に謙虚であるべきだと考えています。

モダンだと特にピアノの部分が弱く、後の作品で述べると思いますが、モーツァルトの音楽にあるきらびやかさや伸びやかさというものが死んでしまうように思うのです。

実際、私が聴いているモダンでさえその傾向があり、私が聴いているのはマレイ・ぺライア指揮とピアノ、イギリス室内管弦楽団ですがそれでも少し負け気味です。しかし、きらびやかさや伸びやかさと言う点では、さすがモダン楽器です。これがフォルテピアノでは表現し切れていないのです。私が持っているピリオドはマルコム・ビルソンのフォルレピアノで、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮、イングリッシュ・バロック・ソロイスツですが、聴いたとたん「ピアノが弱い」と思いました。

既にモダンで20番と24番は持っていましたから、すぐわかります。これは聴きこんでいますから〜

ですので、特に初心者の方にはモダン楽器で聴かれることをお勧めします。交響曲ならどちらでもかまいませんが・・・・・