さて、今日は以前よりご紹介しているバッハ・コレギウム・ジャパンのバッハ・カンタータ全曲シリーズのご紹介です。
まったく私のほうが亀さんで追いついていないのですが、ようやく23まで買いました。追いつくまで毎月一枚をまるで自分に「課す」かのごとく買っています。
この23も収録内容が充実しています。
・カンタータ第10番「わが魂は主を崇め」BWV10
・カンタータ第93番「愛するみ神にすべてを委ね」BWV93
・カンタータ第178番「主なる神、我らの側に留まりたまわず」BWV178
・カンタータ第107番「なぜうなだれるのか」BWV107
カンタータ第93番はBCJ発足時のコンサートで演奏された曲で、このアルバムは初心に返る決意表明。そういう意識は大事だなって思います。私自身もそれを大事にしたいなと思います。
さて、内容としましては、まずカンタータ第10番はレチタティーヴォは受難曲かと思うくらいストイックです。確かに、この時期は受難曲が書かれていますので、それとの関連を感じます。
これなら、一緒にコープマンのDVDも買ってくれば良かったなと思います。この曲の用途はマリアのエリザベト訪問の祝日のため。実際、歌詞もルカから取られ、それにマニフィカート旋律を低旋律にとるという構成です。
これは、私たち日本人にとって、あれ、宗教改革で対立しているのでは?と奇異に感じる部分です。しかし、それがまったく対立していない部分に、私はバッハのキリスト者としての生真面目さをむしろ感じます。寛容の精神を自ら示しているように、仏教徒の私としては感じるのです。
カンタータ第93番は、典型的なコラールカンタータです。神への信頼を説くもので、宗教曲としてのカンタータの真髄を見ることができます。用途は三位一体節後第5日曜日。1724年7月9日初演。ですので、ちょうど時期的に夏、ということになります。この夏の時期の日曜日は常に三位一体節後第何日曜日と言われます。日曜礼拝のためにバッハが常に作曲していたのが目に浮かぶようです。派手さはありませんが、ストイックな面がひしひしと伝わってきます。こういう点が、私にはたまりません。
また、レチタティーヴォも受難曲的であり、受難曲から入った私としましては、とても親しみがもてます。
カンタータ第178番もコラールカンタータでありまた夏の時期の日曜礼拝用です。内容としては「福音書の語る『偽預言者』の姿を浮かび上がらせる」と事典には書かれてあり、確かに開始はただならぬ雰囲気を感じます。当時の啓蒙思想(理性崇拝)への警鐘とありますが、これはどう取るかですね。ある勢力はそれを自分の都合のいいように使うでしょうが、私はバッハは警鐘を鳴らしただけであり、それはキリスト者として当然の姿勢であり、批判したわけではないと思っています。
無理性に崇拝することにも問題があり、それは戦前から戦中のわが国を考えればよくわかるかと思います。要するに、そのバランスをどう取るのか、それを問うていると私は思います。エヴァンゲリストはここではとても激しく、しかし押さえ気味に歌っている点がそれを象徴するように思います。そこに私は謙虚さを感じるのです。
カンタータ第107番も、ほぼ同じ時期に作曲され演奏されたものです。これも神への信仰と信頼を説いているものです。コラールカンタータそのものといった感じで、全曲他人のコラールをそのまま歌詞としています。つまり、歌詞だけ借用です。いろんな事情があったようですが、バッハの多作ぶりをうかがわせます。まあなんと働き者なのでしょう!私など敬服します。
そう、ストイックでキリスト者としての側面ばかりバッハは言われますが、実際彼は教会に仕える「音楽職人」です。つまり、サラリーマンのようなもの。ベートーヴェンのような個人事業主ではありません。そのあたりに私が惹かれる理由もあります。同じサラリーマンとして、バッハはどのように自分の主張を述べていったのか。カンタータにはそのヒントがたくさん隠されているのです。私も聴きますごとに「こんな表現方法もあるのか」と勉強になることばかりです。
そして、かなりのキャリアでもあります。それが名曲の数々として残っている由縁かと思います。
カンタータの標題は歌いだしによるのですが、この曲の通り「なぜうなだれるのか、おお、わが愛する魂よ?」といわれて、うれしくない人はいませんよね。そんな点に、私はバッハのセンスの良さと、その根底にある温かみを感じるのです。
聴いているCD
バッハ カンタータ全曲シリーズ23
バッハ・コレギウム・ジャパン
(KKCC2360もしくはBIS-CD-1331)