今日は、「ラズモフスキー第2番」である、弦四第8番です。ラズモフスキーの中では唯一の短調になります。そして、ハイリゲンシュタットの遺書以来、弦楽四重奏曲では初の短調です。
しかし、この曲が短調であるのは、ラズモフスキー伯爵の奥様がなくなられたことにあるようです。そして、それをあらわすかのように、第1楽章は短調から長調へと変化してゆきます。まるで残された遺族を慰めるかのように。
私はここに実は「ハイリゲンシュタットの遺書」の苦悩を乗り越えたベートーヴェンを感じるのです。自身、自殺しようかと思うくらい苦しんだ後に、「他人との関係を表す」弦楽四重奏曲に他人の死を入れ込んだときに、ただ悲しいだけでなく、その後に希望を見出すような明るさをさりげなく、かつすばらしい転調でもってくる点です。
私はここに、当時のベートーヴェンとその支援者の関係が見えてくるように思うのです。もし、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲が本当に「他人との関係を表す」のであれば、この曲こそラズモフスキー伯爵やリヒノフスキー公爵がベートーヴェンの「苦悩を突き抜けての歓喜」という面を評価していた「証」であると思うのです。
そう、三曲の中で、この曲にこそ、ベートーヴェンが言いたいことが詰まっているように思うのです。悲しみはいつまでも続かない、悲しみを内に秘め、前を向いて歩いてゆこう、と。
この三部作にはどこかでロシア民謡が使われていますが(ちなみに、第7番のラズモフスキー第1番は第4楽章が「テンポ・ルッセ(ロシアのテンポで)」と名づけれられています)、この第8番では第3楽章で使われています。しかも、それはスケルツォのトリオなのです。まるでロシア民謡が次々と表れ、死者のはなむけとされているかのようです。しかも、その調性は明るく、まるで映画「おくりびと」を見ているかのようです(映画に内包されているおかしみはありませんが)。
これほど見事なレクイエムがあるでしょうか。ええ、この曲は弦楽四重奏曲です。レクイエムではありません。しかし、構成は良く似ています。はじめ暗めで始まり、途中転調して明るくなり、フーガ(ここでは、スケルツォのトリオ)があり、そして最後は長調で始まるも短調で閉める。フーガがなければ、まるでレクイエムのようです。
第1楽章は死者を失った悲しみ、第2楽章でその魂を夜に偲び、第3楽章で祖国ロシアへと魂を送り、第4楽章で遺族が悲しみを乗り越えてゆく、と考えれば、私たちが葬儀で死者を失った悲しみを乗り越える道筋そっくりです。
しかし、この曲は確かにレクイエム、つまり死者のためのミサ曲という「宗教曲」ではありません。世俗曲である弦楽四重奏曲です。そのとおり、単に悲しみだけを表現していないところがさすがです。その上、曲はとても高貴で格調高く、それでいてどこかサロン的な部分もきちんとある曲です。肩がこらないようにしてあるところに、ベートーヴェンが少しはにかんでいるように思います。
さて、この曲もアルバン・ベルク四重奏団とスメタナ四重奏団と二つの音源を聴きながら書いています。パソコンに取り込むと便利ですね。普通に二つの演奏を続けて聴くことができます。これが普通のデッキですと、大変です。いちいち取り替えなくてはいけないですし、そうしたくなければ、テープなどにダビングし、自分で二つの演奏のテープなり、CDなりを作らなければいけません。その編集作業は大変です。まあ、かつてはそれが楽しみだったのですが^^;
これも甲乙つけがたいのですよ〜。このあたりからベートーヴェンの弦四は交響曲のような内容を持つようになりますが、アルバン・ベルクはそれを強調しているように思います。それはドラマティックです。一方、スメタナはとても丹精で、しかも静かに音楽が流れてゆきます。特に、この曲は第1楽章冒頭で弦の激しい和音があり、まるで打ち鳴らすかのようです。それがとても静かです。しかし、ベートーヴェンが表現した悲しみはひしひしと伝わってきます。
これはどちらがいいかというのは、私は聴く方がどれだけ身近な方を亡くされていて、その悲しみをどれだけ心に抱えているかに任せたいと思います。あまりにもまだ悲しみの途中である方は、スメタナをお勧めします。もうすこし落ち着いて、振り返ることができるようになった方は、アルバン・ベルクをお勧めします。どちらも演奏はすばらしいです。また、この曲の内容から、演奏者がどうしても入れ込みすぎている部分があるのですが、そのあたりでの崩壊具合(勿論、プロですから完全崩壊はしません)もほぼ同じくらいです。暖かいスメタナか、激しいアルバン・ベルクか、ご自分の精神状態でお選びください。
私は、アルバン・ベルクの方が名演だからといって、アルバン・ベルクをむやみに勧めたくはありません。名演だからこそ、聴けないこともあるのです。そういう方には、スメタナをお勧めしたいのです。