かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ショルティとシカゴ交響楽団によるベートーヴェン交響曲全集1

東京の図書館から、今回から4回シリーズで府中市立図書館のライブラリである、サー・ゲオルグショルティ指揮シカゴ交響楽団の演奏によるベートーヴェン交響曲全集をとりあげます。

府中市立図書館はとにかく全集は充実しており、神奈川県立図書館ではなかなかなかった全集も数多く所蔵しています。このショルティのものもそんな一つになります。

実はこの全集のうち、私は第7番~第9番までは分売で買っています。そのため今回は第6番までをご紹介するということになっています。せっかく図書館にあるのですから、これ幸いと借り来たのでした。

さて、まずは第1集。第1番と第2番が収録されています。ということはほぼほぼ番号順での収録ということになります。特に第1番のアグレッシヴさが目を引きます。いや、第2番もなんですが。

その意味では、近代的なアプローチをしていると言えるでしょう。聴いていて爽快で、とても楽しい演奏です。若きベートーヴェンのほとばしる情熱が演奏から伝わってくるかのようです。

ただ、だからと言って有名な番号が私好みとは限らないケースもあるので、ほかも聴いてみないとわからないのが全集というものの怖さと魅力です。まあ、図書館で借りてきてリッピングしておけば場所は取りませんしね。仮にがっかりだとしてもそれほど残念なことにはなりません。まあ、最近はめっきり減りましたけどそんなケースは。

とにかく、元気溌剌!という表現が見事に当てはまる演奏でしょう。つい体が動いてしまいます。こういう生命力あふれる演奏はやはりいいですね!

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第1番ハ長調作品21
交響曲第2番ニ長調作品36
サー・ゲオルグショルティ指揮
シカゴ交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ブロムシュテットが振るシベリウス交響曲全集4

東京の図書館から、4回シリーズで取り上げている、小金井市立図書館のライブラリである、シベリウス交響曲全集、今回は最後の第4集をとりあげます。

第4集には、第4番と第5番が収録されています。録音時間の都合上、どうしても番号順とはいかなかったこの全集ですが、それでもこの第4番と第5番が最後に来ていることで、気が付かされることはたくさんあります。

その一つが、シベリウスにとっての交響曲とは、一体何だったのだろう?と考えるきっかけになったことです。第4番は古典的な4楽章形式ですし、第5番は4楽章形式なら第1楽章と第2楽章が一つの楽章になっているということで後年のシベリウス作品の特徴をはっきりと示しているものです。が・・・・・

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

なぜ、シベリウスは第5番において、4楽章形式なら第1楽章と第2楽章を一つの楽章にするとしたのだろうか?と私は考えるわけなのです。ウィキには祝祭感とありますが、確かに第4楽章にはそんな雰囲気もあります。ですが、演奏を聴く限り、第1楽章に祝祭感はあまりありません。むしろ暗い感じです。

まあ、第4番よりは明るいですけれど・・・・・・シベリウスって、北欧のさわやかなとか言いますけれど、交響曲に関してはむしろ自分の感情だったり、心象だったりをストレートにぶつけている感じが私にはします。ブロムシュテットもその解釈なのではないか?と思っています。不安定な要素満載の第4番、そして自分の50歳を記念する作品ではあるが、戦争の影がちらつく中でこれも不安定な要素が強い第5番。どれも一筋縄ではありません。

その「一筋縄」ではないんだという、シベリウスの心情を、十分救い上げているのがこの演奏だと思うのです。となれば、私たち聴衆のほうも、単純化しないほうがいいだろうと思うんです。

第5番の構造に話を戻せば、3楽章という点にこそ、むしろシベリウスが込めたメッセージが隠されていると言えましょう。つまりは「自由」。独立して他国の支配から自由になったフィンランド。しかし、政情不安定で必ずしも落ち着いて創作活動ができないときの作品である第4番は古典的な4楽章でまとめていますが、戦争の影がちらつき、祖国の独立すら危ぶまれる状況で作曲された、自分の50歳を祝う作品である第5番は、その自由が奪われるかもしれないというメッセージを込めているように私には取れるのです。

生きのいい演奏を生み出すブロムシュテットのタクト。ここではその生きのよさというのは影を潜めます。むしろ不安要素を前面に出し、リズム感もこれまでの作品に比べれば無くなっています。つまりは、そういう生き生きとしたものが失われている作品である、とブロムシュテットが解釈して、オケを鳴らしていると考えれば、つじつまが合います。なるほどなあ、と。

確かに、生き生きとしたものを要求するには酷な作品が並んでいます。となれば、これは意図して最後にこの二つが来ていると判断したほうがよさそうです。シベリウス交響曲とは何ぞや?と聴き手に問いかける・・・・・これもまた、ひとつのシベリウス作品の呈示の仕方だと思います。こういう仕事こそ、プロだよなあと思います。とても満足が行く全集だったと思います。

また、音質もいいんです、この全集。ソニーのMusic Center for PCでDSEE HXをきかせて聴きますと、本当に臨場感たっぷり。確かこれは元音源デッカだったと思いますが、昨日の小澤/水戸室と一緒!それを考えると、デッカって本当にすごいレーベルだよなあ、と思います。そりゃあ、フィリップスは売りますよ、ええ・・・・・フィリップスがないのは残念ですけどね。でも、この全集と、そして昨日の小澤/水戸室を聴いてみれば、その技術力の高さは比肩するのはドイツ・グラモフォンくらいですよ、やっぱり。そりゃあ、フィリップスはもたないです、グローバル化の波の中では・・・・・

 


聴いている音源
ジャン・シベリウス作曲
交響曲第4番イ短調作品63
交響曲第5番変ホ長調作品82
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮
サンフランシスコ交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

今月のお買いもの:小澤征爾と水戸室内管弦楽団による第九

今月のお買いもの、令和2(2020)年11月に購入したものをご紹介します。au music storeにて購入しました、小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団によるベートーヴェン「第九」です。ハイレゾ96kHz/24bitです。

購入当時、プロジェクト終了が近くて、職場が一つのチームのように感じれらたことから、一足早く購入したように記憶しています。ただ、実はこの演奏、e-onkyoにもありまして、一応避けていたものでもありました。それはセッションとライヴが同居している録音だから、です。

それは録音当時、小澤の体調がすぐれなかったことが原因のようです。そもそもは、2017年10月13・15日に行われた、水戸室内管弦楽団の第100回記念定期演奏会を収録したものなのですが、この時まるで第九の初演のようなやり方になりました。第1楽章と第2楽章をラデク・パボラークが振り、小澤は第3楽章と第4楽章を振る、という形での演奏だったそうなのです。

www.hmv.co.jp

通常、こんなことはしません。よほどのことがないとこのようなことをするはずがないんですね。今回検索してみて、なるほど、と思いました。それで別途セッション録音をしたのか、と。

クラシックのアルバムだと結構この手はやりますが、最近は少なくなってきたように思います。実は昔なら、楽章内でつぎはぎをしていることなど当たり前でしたから。意外とそういうことを知らないで例えば「クレンペラーは民主的だ!カラヤンは・・・・・」とか言う評論も多いんです。いやいや待って、そもそも、昔はつぎはぎよ?それをなるべくコンサートに近づけたのはむしろカラヤンでしょ?って思うのですが・・・・・

この演奏では、実は明らかに第4楽章とそれ以外で違いが見受けられます。熱量の違いと言えば分かりやすいかも。あるいはオケの集中力の違いというか・・・・・

オーディオ的に言えば、第4楽章で明らかに録音音量が上がっているとわかる部分もあります。レーベルはデッカなんですが、いやあ、ある意味すごい録音ですよ、これ。小澤と水戸室(と略します)のコンビなので、特に変態演奏でもないんですが、記録媒体としてはかなり変態だと言っていいでしょう。

それでも、演奏は聴いているうちに引き込まれていきますから、さすが。そもそも水戸室はその設立から小澤征爾がかかわっており、そのためかオケと指揮者との信頼関係、あるいはリスペクトというものが半端ない部分があって、それは演奏にも表れています。第4楽章で熱量が最大となり、よく聴けば弦部でアインザッツがそろっていない部分が・・・・・それでも、この演奏はやはり一度聴いてしまうと引き込まれます。

合唱団もその前にサイトウ・キネンとの演奏で採用した東京オペラシンガーズで、これもまた熱量が高くて、その前のオケの失態を挽回して余りあります。こういう演奏をライヴで聴けた聴衆たちはラッキーだったと思います、ほんと。もちろん当初はいろいろ思うこともあったでしょうが、少なくとも私はこれをライヴで聴いた人たちは幸せだよなあと思います。少なくとも、演奏者たちの「熱量」を感じる演奏に出会えたのですから。

プロオケでアインザッツが合わなかったりとか、そうそうないことです。それが起こって、しかし熱量の高さにより、まるでないかの如くになっている演奏なんて、そうそう出会えません。もちろん、プロオケだって人間です。カラヤン指揮の第九で第3楽章のホルンがひっくり返っているものがあることは有名です。そんなことだって人間だからあるんです。そこをプロはどう立て直すのか・・・・・それを楽しむのも、ライヴの醍醐味です。

ライヴでは第1楽章と第2楽章を別の指揮者が振ったわけですが、それなら同じ指揮者で別途セッション録音をしても何ら問題ない、ということになろうかと思います。むしろ統一性という意味ではその方がいいでしょう。全体としては、その「統一できる喜び」にあふれている演奏だと言っていいでしょう。しかし、ライヴである第3楽章と第4楽章、特に第4楽章の熱量は、私たちにそもそも作品が持っている「連帯の喜び」を表現して余りあると思います。購入当初はなにこれ?と思った演奏ですが、今では好きなものの一つになっています。そもそも、この演奏に目が留まったのは何も小澤征爾と水戸室のコンビだからだけではありません。そもそも水戸室だったから、です。新型コロナウイルス感染拡大を受けて、第九はどのように演奏すべきなのかを、私自身探っていた時期でもありましたから・・・・・

仕事をしながら、プロジェクトはどのようにあるべきか、種子島で愚痴をこぼしながら、先輩や同僚、そして上司や後輩たちと議論をしていたことを思い出します。食堂しか集まれる場所はなく、しかも新型コロナウイルス感染拡大防止のため、大勢で話すこともできないという状況の中で、あーでもないこーでもない、それはこうしたほうがいいよ、など指摘しつつされつつ、という時期に、同時に第九はどのように演奏されるべきなのか?ということを、仕事に引き寄せて考えていた時期でした。東京から離れた南の島だからこそ、囚われなしに考えてみようと仕事をしながら考えていました。そんな時期に、auでも販売しているのを知ったのでした。だからこそ、この演奏を聴いてみよう、買ってみようという気になったのだと思います。

その意味では、あの2か月半は、私にとってはいろんな意味のある2か月半だった、と思います。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品1254「合唱」
三宅理恵(ソプラノ)
藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)
福井 敬(テノール
マルクス・アイヒェ(バリトン
東京オペラシンガーズ
小澤征爾指揮
水戸室内管弦楽団
(DECCA 4834431 96kHz/24bit)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:アシュケナージが弾くバッハの6つのパルティータ2

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、シリーズで取り上げています、アシュケナージが弾くバッハのパルティータ、今回はその第2集をとりあげます。

第2集は後半として、第4番から第6番までが収録されています。主調としては長調が二つですが、実際には途中短調への転調も数多くあり、単なる舞曲からは外れてきている点も散見されます。

その意味では、アシュケナージの「舞曲集だけどクラヴィーア曲」という解釈そして視点は実に正しいと思います。切り替えが明快で、主張もはっきりしているのも魅力的。

そのうえで、タッチが繊細で表情豊か。キツイ打点もないのにどこか存在感があり、太い幹を感じられるのです。これは本当に素晴らしい!

個性とは何ぞや?という問いに対する答えは、簡単な様で実に難しいものですが、少なくとも聴き手としては、その人らしい「歌」を歌っているかだと、私は思っています。その点でアシュケナージには十分個性があり、まさにパフォーマー表現者)だと言っていいでしょう。

このパルティータなら、近年ならチェンバロで演奏することのほうがスタンダードでしょうが、それをあえてピアノでやる、というのもすでに個性です。もちろん、チェンバロでの演奏も聴きたい私ですけれど。やはり、作品が生まれたときはチェンバロを念頭に作曲したわけなので。しかしそれをあえてピアノで表現してみるというチャレンジ精神が素晴らしいのです。

そしてそのチャレンジの結果は上々だと言えるでしょう。アシュケナージの演奏を聞いていますと、バッハの「組曲」とは、ピアノ伴奏にて踊るのではなく、ピアノを演奏することで表現者が演奏という作業を通して「魂を躍らせる」意味なのではないのか?と思ったりしてしまうのです。こういう演奏こそ、プロの仕事だなあと思います。

さて、アシュケナージが本当に指揮でもこのようなアプローチを本当にしなかったのか・・・・・今後、私も十分に耳を傾けていきたいと思います。すでに引退したアシュケナージ。もう新しい録音が出ることはありません。ですが過去の録音でかれは存分に表現をしているはずなのです。そのメッセージを受け取るも受け取らないも、私たちにかかっていると言えるでしょう。

 


聴いている音源
6つのパルティ―タ(CD2)
第4番ニ長調BWV828
第5番ト長調BWV829
第6番ホ短調BWV830
ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:アシュケナージが弾くバッハの6つのパルティータ1

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回と次回の2回で、ウラディーミル・アシュケナージが弾くバッハのパルティータを収録したアルバムをとりあげます。

パルティータ自体はバッハの作品には数多くあるのですが、それだけを集めた作品集となると、BWV825~830の6曲を集めたものになります。前奏曲との組み合わせが多いパルティータですが、この曲集は実はそれぞれがパルティータという「組曲」になっているのです。

ja.wikipedia.org

となると、これは性格的には舞曲集、ということになります。確かにクラヴィーア練習曲集としての性格もありますし、バッハのクラヴィーア曲の集大成とも言われますが、基本的には舞曲集、です。この作品を伴奏として、踊ってしまえるように、という意図もあるのは明白であると言えるでしょう。

ですが、アシュケナージは決してその枠に留まろうとはしません。時に優雅に、時にリズミカルに激しく演奏します。これはピアノ、つまりクラヴィーア曲ですから、と言いたげに。しかし、「舞曲である」という視点は決して忘れません。それを念頭に置きつつも、舞曲という視点だけで弾かないんです。こういう点はアシュケナージの素晴らしい点だと思います。譜読みの段階でしっかりとした「己」というものをもっているということなのですから。

そのアシュケナージの視点が生み出すのは、アシュケナージ自身の「歌」です。優雅に弾いている曲はまるで楽譜通りに弾きました~という印象を与えますが、いったんテンポアップしてしまえば、アシュケナージが作品に対して持っている情熱がほとばしります。おお~、アシュケナージはこの曲愛しているな~というのが伝わってくるんです。こう共感できるの、いいなあ。

バッハ作品の難しさって、その一見すると何もないように見えるけれども実は奥深い点が隠されている点です。聴衆として聴くとこんなの簡単でしょ?って思う作品ほどシンプルゆえに難しかったりするんです。この6つのパルティータもそんな作品だと言えるでしょう。第1集には第1番BWV825~第3番BWV827までが収録されていますが、そのどれも単純であるのに、「歌」になっている演奏なんですね~。それがアシュケナージが「己」をもって弾いている証拠だと思うゆえんなんです。

指揮者としては評価が真っ二つに分かれることが多いのですが、ピアニストとしては、やはり一流だと言っていいと思います。

 


聴いている音源
6つのパルティ―タ(CD1)
第1番変ロ長調BWV825
第2番ハ短調BWV826
第3番イ短調BWV827
ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ブロムシュテットが振るシベリウス交響曲全集3

東京の図書館から、シリーズで小金井市立図書館のライブラリである、ブロムシュテット指揮サンフランシスコ交響楽団の演奏によるシベリウス交響曲全集をとりあげていますが、今回はその第3集を取り上げます。

第3集には、第3番と第6番が収録されています。ブロムシュテットの指揮ではずれを経験したことがないのですが、このシベリウスでも同様で、特に第3番の生きのよさは絶品です。

第3番に関しては多分どの演奏を聞いたとしてもあまりはずれはないとは思いますが、聴いていてワクワクするのはこれだけのような気がします。そのうえで、最終楽章での行きつ戻りつのような旋律のせめぎあい、そしてその最終としての讃歌。本当に素晴らしい!

第6番も、晩年のどこか達観した感じではなく、達観の中にある「生命」というものにフォーカスして、同様に生き生きとした演奏。ブロムシュテットの譜読みはどんな作曲家でも常に「生命力」をいかに引き出すかであるかのようにすら思えてきます。

シベリウスという作曲家は、ある意味「生きづらさ」で悩んでいた作曲家だと言えます。若いころは自分の祖国のおかれた状況、そして現代的に言えば明らかな「アルコール依存症」患者としての行動。そこからいかに回復するかがシベリウスの人生において、そして創作するにおいて非常に重要なファクターとなっていくわけですが、まさに現代もアルコール依存症者が回復していくその過程にそっくりな行動をとっていることに驚かされます。

その視点から言えば、まさに第3番は「回復の過程」を表現した作品だと言えるかと思います。臨床心理、特に依存症からの回復という視点から言えば、それはらせん状だと言われています。第3楽章はまさにそのらせん状の回復であると以前述べたことがありますが、それは私自身の対人援助の仕事の経験からいずる解釈です。シベリウスアルコール依存症者であれば、当然その回復はらせん状であるから、です。そして、シベリウスにとって、創作とは現代で言えば依存症者がミーティングで自分の経験を話したり、カウンセリングで棚卸をしたりすることと同意です。

クラシックの作曲家たちは総じて同じだと言えると私は思っていますが、特にシベリウスはその傾向が強く感じられます。ブロムシュテットという指揮者はそういう視点があるのだろうかと思ってしまいます。こればかりはインタヴューしてみないとわかりませんが・・・・・いろんな方がインタビューしていますが、「依存症からの回復」という視点でした人を見たことがないので。

特に、この第3番と第6番はその構造からして、隠されたメッセージが「自由」でもあるだけに、余計私は感じます。三楽章形式である第3番。通常の第3楽章と第4楽章をひとまとめにしたと言われ、それは後年1楽章形式へとつながっていくのは確かでしょうが、果たして単純にそういう経緯だと言っていいのでしょうか?むしろシベリウスがもし第8番を作曲していたとしたならば、それは本当に単一楽章になっていたんだろうかという気が私はしてなりません。

単一楽章という手法まで手に入れたとしたら、創作をするとして、様々な材料を手に入れたとは言えないでしょうか?ですがその代わり、交響曲が単一楽章となってしまえば、それはともすれば交響詩と何ら変わりなくもなります。仮にシベリウスがその違いをどうつけるのかで、再び生きづらさを抱えていたとすれば・・・・・晩年の創作からの引退は、当然だったともいえるように思います。依存症というのは、スライド、つまりほかのものへと依存の対象が変わって行くものであるから、です。アルコールからいつしかワーカホリックに自分が変わっていることに気付き始めたとしたら・・・・・そこから離れることが唯一の回復への道です。であれば、引退、ということも当然あることです。

長寿したシベリウスであれば、交響曲はあと2つは書けたことでしょう。しかし、第7番で筆をおいています。その事実を最大限譜読みから生命力として引き出す材料として、ブロムシュテットは使っているように、私には強く感じられるのです。

 


聴いている音源
ジャン・シベリウス作曲
交響曲第3番ハ長調作品52
交響曲第6番ニ短調作品104
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮
サンフランシスコ交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ブロムシュテットが振るシベリウス交響曲全集2

東京の図書館から、4回シリーズで取り上げている、ヘルベルト・ブロムシュッテット指揮サンフランシスコ交響楽団の演奏によるシベリウス交響曲全集、今回はその第2回。第2集をとりあげます。

第2集では交響曲第2番と、交響詩「タピオラ」、そして「悲しきワルツ」が収録されています。

私はこの全集の中で、この第2集は神集だと思っています。それはなんと言っても、第2番の解釈と演奏にあります。

この演奏の第2番は、一番最初にシベリウス交響曲として買ったアシュケナージ指揮フィルハーモニア管よりはテンポ的に速い点も散見されるのですが、結構テンポを揺らすことで一つの「歌」を紡ぐことに成功し、感情の高まりが自然な形になっているのも本当に魅力的です。

クルレンツィスの「運命」に足りないのが、この「歌を紡ぐこと」だと思っています。歌わない演奏はどんなに技量が優れていたとしても私の魂には響きません。音楽を楽しんでいることはわかりますが、けれども魂に響いてくるかと言えば、それは違うよなあという感じです。

しかし、このブロムシュテットとサンフランシスコ響の演奏は、しっかりと自分たちの歌となっているため、ビンビン魂に響いてきます。こういう演奏こそプロだと思います。っていうか、今どきはそれくらいはアマチュアですらやっているのですけれど・・・・・

シベリウス最後の作品だと言っていい「タピオラ」も、カラヤン指揮ベルリン・フィルに比肩するだけの解釈とクオリティを持ち、しかもベルリン・フィルサウンドが持つ硬質さからくるカラヤンの外形的美と勘違いするようなものもないのがまた魅力的。これを外形的美とか言って文明批判するようなら、その人はちょっと精神科へかかった方がいいと思います・・・・・

最後の「悲しきワルツ」も透明感だけではなく生命力も感じる演奏で、シベリウスの作品に対するしっかりとした視点と愛を感じられます。プロならこういった演奏を求めたいですし、カラヤンを批判するならこの全集くらいは聴いてほしいものです。

 


聴いている音源
ジャン・シベリウス作曲
交響曲第2番ニ長調作品43
交響詩「タピオラ」作品112
悲しいワルツ 作品44
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮
サンフランシスコ交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。