かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ヴィヴァルディのヴィオラ協奏曲

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はヴィヴァルディのヴィオラ協奏曲を収録したアルバムをご紹介します。

ヴィヴァルディの協奏曲はこれまでもいろんな楽器のものをとりあげており、今更感もあるのですが、その先進性とスタイリッシュな構造は、現代でも色あせることはありません。

そもそも、このヴィオラ協奏曲にしても、確かに独奏楽器をヴィオラとするというのも珍しい点ではありますが、その中でしっかりと三楽章で急~緩~急という様式で作曲されている点は、ヴィヴァルディがバロックの作曲家でありながらも、先進性を備えた作曲家だったことを色濃く現すものです。

ここには、ヴィヴァルディが作曲したヴィオラ協奏曲のほぼすべてが収録されており、音楽史的な点からはアレ?と思うクレジットもありつつも、その演奏は実にしなやかかつダイナミック。流麗なのにその内包するエネルギーがきき手に伝わってきます。そのソリストは、ファビオ・オンディ。同じヴィヴァルディでは「四季」で一世を風靡したソリストです。

tower.jp

ここにある通り、じつはヴァイオリニストですが、それが似た楽器であるヴィオラを弾いている、ということになります。「四季」ではそのヴァイオリンでアグレッシヴな演奏を聴かせたビオンディですが、それをずっと買おうか買うまいかで悩み続けてウン十年。結局買わずにここまで来たのですが、しかしそんなビオンディヴィオラ?と聞いてそれなら借りてみようかな、と思ったのです。

で、聴いてみたら、いやあ、アグレッシヴさもあるけれど、艶もありますし、歌うし、繊細だし・・・・・いやあ、これほどワクワクする演奏は素晴らしいなあと思ったのです。

アグレッシヴさだけなら、最近はビオンディを選択しなくても素晴らしい演奏はあります。ですが、そこにさらに磨きをかけ、艶、美しさ、精神性、歌などがパッケージとして提示され、心を、いや魂を揺さぶられる演奏になっているのはもう脱帽!

ヴィヴァルディの協奏曲が基本的に持つ先進性を、奇をてらうことなく一見すると相反するものの中で統合し、ひとつの芸術として表現しているのは、おいしい料理をいただいているのと一緒です。これは本当に素晴らしい!

歳をとるごとに、味わい深い演奏になっているような気がします。今なら、ソリストとしてビオンディがクレッジットされていれば、ハイレゾであれば買うと思います。

 


聴いている音源
アントニオ・ヴィヴァルディ作曲
ヴィオラ・ダモーレ協奏曲ニ短調RV394
ヴィオラ・ダモーレ協奏曲イ長調RV396
ヴィオラ・ダモーレ協奏曲ニ長調RV392
ヴィオラ・ダモーレ協奏曲ニ短調RV393
ヴィオラ・ダモーレ協奏曲ニ短調RV395
ヴィオラ・ダモーレ協奏曲イ短調RV397
ヴィオラ・ダモーレとリュートのための協奏曲ニ短調RV540
ファビオ・ビオンディヴィオラ・ダモーレ、指揮)
ジャンジャコモ・ビナルディ(リュート
エウローパ・ガランテ

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ワルター指揮コロンビア交響楽団によるベートーヴェンの交響曲全集6

東京の図書館から、シリーズで府中市立図書館のライブラリである、ワルター指揮コロンビア交響楽団によるベートーヴェン交響曲全集をとりあげていますが、今回はその第6集をとりあげます。

最後の第6集には、第9番が収録されています。全体としては、私の好みだなあという感じです。どっしり感はありますが、全体として生命力ある演奏は、作品が持つ内面性をよく表現しているように思います。

いつも私が取り上げる第4楽章vor Gott!の部分も特に変態演奏ではないですし、オーソドックス。なのに湧き上がる生命讃歌。やはりワルターは素晴らしいですね。

現代社会において、第九という作品を演奏することは非常に意味のあることであるのと同時に、しんどいことでもあると思います。経済の長期停滞が予想される中、オーケストラを維持することも困難が予想され、いくつかの団体は解散に追い込まれるかもしれません。仮にそうなったとき、どのように第九を演奏するのか。残された団体だけの特権なのか、です。

そんな特権などどこにもあろうはずがありません。実は今年、Prject Bというアマチュアオーケストラを聴きに行く予定でいました。そのオケが今年演奏する予定だったのが、第九です。これも通常は寄せ集めであるようで・・・・・

https://projectb.blog.ss-blog.jp/archive/c2304457161-1

こういったオケは、おそらくこのワルター指揮コロンビア交響楽団を念頭に置いているのではないか、という気がするのです。寄せ集めでも、その一人一人の技量と情熱が勝れば、いい演奏ができると信じる力・・・・・ぜひとも聴いてみたかった演奏会ですが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、来年5月に延期となったのでした・・・・・

とても残念ですが、アマチュアのこういう動きはプロオケを先んじている点もあります(実際、ネット配信もプロと若干早く配信したのはアマチュアオケでした)。おそらく、今度このような「ほかの仕事を今はしているけれども実は元プロ」が集まって演奏会をするということが、当たり前になるかもしれません。そんなときは、ぜひとも私は演奏会へ聴衆としてはせ参じたいと思いますし、また第九をやるなら合唱団として参加したい!とも思います。

常設でないといい演奏はできない・・・・・本当でしょうか?確かに常設は安定して練習ができますし、経済的にも安定するので優秀な人材を確保できるでしょう。それは認めます。けれども、その常設が今後どれだけ可能なのか?ということも言えるのです。そのために、私たちはどれだけ金を出すことができるでしょうか?結構日フィルあたりを非難する人もクラシックファンの中で多いという状況において、果たしてどれだけ可能なのでしょうか?政府がどれだけ金出してくれますか?

この半年間で、そんなことはないとわかったはずではないのでしょうか。ならば、いざオケが解散となったとき、その人材をどれだけほかの業界が吸収し、仕事があるということで補完し、アマチュアとしての活動を支援するかも、大切な要因だと思うのです。そこからもう一度、プロオケ結成をどれだけ支援できるかがカギだと思っています。

このワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏は、その意味で非常に現代的な問題を提起している演奏だと思います。合唱団が一応聖歌隊なのですが、ベートーヴェンのこの交響曲を単なる交響曲とだけとらえるのではなく、一種のカンタータであるという解釈なのかな、という気もします。まさに全体的に歌っている演奏は、ステレオ初期とは言え、文字通りワルターの芸術を残すことに成功した一例ではないかと思います。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」
エミリア・クンダリ(ソプラノ)
ネル・ランキン(メッゾ・ソプラノ)
アルベルト・ダ・コスタ(テノール
ウィリアム・ウィルダーマン(バリトン
ウェストミンスター交響聖歌隊(合唱指揮:ワーレン・マーティン)
ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団

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東京の図書館から~府中市立図書館~:ワルター指揮コロンビア交響楽団によるベートーヴェンの交響曲全集5

東京の図書館から、シリーズで府中市立図書館のライブラリである、ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団によるベートーヴェン交響曲全集をとりあげていますが、今回はその第5集をとりあげます。

第5集には、第7番と第8番が収録されています。第7番と言えばリズムの権化、第8番と言えば、古風な装いかと思いきや革新的な作品と、これもまた個性的な二つであるわけですが、ワルターはどっしりとしたテンポで、この二つに向き合っています。

なので、テンポ的にはそれほど好きな演奏だとは言えません。けれども評価するのは、やはり説得力、です。よく聴けばそこに「歌」があり、その「歌」が説得力の源になっているのです。

だからこそ、二つともテンポとしてはもう幾分速いほうが好みであるにもかかわらず、うん、これいいな!と感じるのです。これぞワルターマジック!

戦前、ワルターが熱狂的に迎えられ、人気だったのもうなづけます。譜読みから掬い取る行間と言ったらいいのでしょうか、深い譜読みを感じます。そこに共感するオケとの、素晴らしき共同作業!

単に遅いテンポで演奏するものならいくらでもあります。特にワルターが生きた時代の指揮者たちなら。しかし、そこにしっかりと「歌」がある演奏は、そうそうないのではないでしょうか。

ワルターの解釈、そして共感するオケによるこの演奏は、じんわりと感動が湧き上がってくるのです。「運命」のようなドラマティックさがない作品なのに、いつの間にか感動している・・・・・そんな演奏、最近少なくなったなあと思います。

これぞ、ワルターの芸術です。当時のコロンビアがステレオで残そうと思ったのも、当然だなあと思います。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第7番イ長調作品92
交響曲第8番ヘ長調作品93
ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団

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今月のお買いもの:ファジル・サイが弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集10

今月のお買いもの、シリーズで令和2(2020)年5月にe-onkyoネットストアにて購入しました、ファジル・サイが弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集をとりあげていますが、今回はその第10回目です。

第10回目は、第28番と、第29番「ハンマークラヴィーア」の2曲。第28番は多くの巨匠と同じような切り口で、それもまた素晴らしいのですが、第29番「ハンマークラヴィーア」は、サイの個性が詰まっているように思います。

第1楽章弾き始め、すこしどっしりとした演奏で始まるのも、ほかの演奏とはちょっと違う印象があります。どっしりかと思いきや、最終楽章は思いっきりはじけるかのような速いテンポ。その両極端が全く気にならないんです。

最初はえ?と思いますが、しかし聴いて行くうちにそんなことがなくなり、これがサイの世界なんだ、と納得してしまう。さすが、非凡さが際立っています。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタの中でも異彩を放ち続ける、「ハンマークラヴィーア」。それを、しっかり「サイ節」で歌い上げてしまう。いやあ、これほど幸せなことないですよ。それで全く私自身の美意識とぶつからず、ともに歩んでいけるんですもん。もう、さすがとしか言いようがない!

こういったところに、サイの才能を非常に感じます。まぢで、インタヴューとかしたいですよ、ほんと。同い年なんですよ、サイとは。どこにこれだけのエネルギーがあるんだろうって思いますよ。古典派でも特にベートーヴェンのピアノ・ソナタは年齢とともに弾きにくくなる曲だと聞いたこともありますが、そんな曲をなぜ、同じアラフィフなのに選んだのか、ぜひとも訊いてみたいという意思がふつふつと湧き上がっています。

そんな意思が湧き上がるくらい、私にとってこの「ハンマークラヴィーア」の演奏は感動するものです。第28番だって、細部ではアコーギクをきかせて歌っているし、とにかく、歌う要素多し!まるでロマン派?という感じにすらなります。

このハンマークラヴィーアは、初めてライヴで聴いた瀬川氏のピアノと同じくらいしびれるものです。本当にサイの追っかけしたいです。え、お前だと気持ち悪いって?それ、いじめですよぉ。言わないで~

 


聴いているハイレゾ
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
ピアノ・ソナタ第28番イ長調作品101
ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」
ファジル・サイ(ピアノ)
(Warner Classics)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:アバドが振ったシェーンベルクとウェーベルンの芸術

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はシェーンベルクウェーベルンの作品を収録したアルバムをご紹介します。

一部すでに借りているものもこれはあるのですが、それでも借りたのは、「ワルシャワの生き残り」が収録されていること、そして指揮がアバドであること、でした。

ワルシャワの生き残り」はシェーンベルクの作品としてはあまりも有名で、教科書にも載っている作品なのですが、しかし音楽鑑賞で聴くことはまれだと思います。ですので、一度聴いてみたくて、借りたのでした。

実は「ワルシャワの生き残り」は合唱曲です。ゆえに歌詞もついています。

www7b.biglobe.ne.jp

曲の説明は、ウィキよりもこのブログのエントリのほうが適切だと思います。

bokunoongaku.com

なぜ「ワルシャワ」での生き残りなのか、その背景には何があるのかが、このエントリのほうが適切だから、です。なぜシェーンベルクはこの歴史的事件を芸術として残そうとしたのか、もです。

歌詞のサイトのほうでは、アウシュビッツとありますが、実際にはそれに相当する事件がすでにワルシャワで起こっており、むしろその生き残りという視点なのですね。それを援用して、絶滅収容所も、というテクストなのです。

ja.wikipedia.org

私たちはどうしても、絶滅収容所しか知らずに、この作品がなぜワルシャワなのかと首をかしげてしまう人も多いかと思います。まさにその状況こそ、funapee氏がエントリで言及する「残さねばならぬ音楽」であるゆえんだと思います。アウシュビッツもひどいことですが、同じような状況がワルシャワで起こっていた、ということなのです。

そしてそれがまた、歌詞サイトで触れられている「今も世界中で発生している」ということなのです。他国が他国を支配するとはどういうことなのか・・・・・人間が人間を人間扱いしないようになるということとは?など、考えさせられることは多々あります。この作品が持つ狂気は、私たちが避けねばならぬ狂気であり、直視するためにあえて作品がくるっている、と言えるでしょう。ゆえに、私自身も残さねばならぬ作品だと感じます。

しかも、管弦楽だけではなく合唱がついている、ということもまた意味があるのだと思います。その狂気を即座に想起できる・・・・・これほどのメッセージ性を持った芸術はないでしょう。

シェーンベルクのもう一つの収録作品であるバッハのリチェルカーレの編曲。シェーンベルクの12音階というのが、実に表現技法のひとつであることを明確にしています。ウェーベルンの作品は、同じく戦争の犠牲者として採用されているように思いますが、特に「オーケストラのためのパッサカリア」は以前私もこのブログで取り上げていますが、この演奏のほうが鬼気迫る感じで素晴らしい!オケがウィーン・フィルということもありますが、本当に素晴らしい!

アバドベルリン・フィル音楽監督時代にも、ヘルダーリンの芸術をとりあげたりと、日の当たらない芸術に目を向ける姿勢が顕著でしたが、このウィーン・フィルとのものも素晴らしい水準だと思います。ウィーン・フィルとは事務方と確執があって疎遠でしたが、さすが共に組めば素晴らしい芸術になります。ウェーベルンでの生命力、内面性、そしてシェーンベルクでの精神性。どれをとっても一級水準。だからこそ「ワルシャワの生き残り」や「オーケストラのためのパッサカリア」では鬼気迫る演奏になっているように思います。

ユダヤ人を冷静に見たときに、長所短所が見えてはきますが、それはどの民族でもあることではないでしょうか。しかしながら、私たち日本人は、それを忘れて、やれ嫌韓だ、やれ中国の脅威だとか言って、韓国人や中国人を叩いてはいないでしょうか。実際、731部隊は中国で何をしていたでしょうか。私たち日本人も、「ワルシャワの生き残り」のドイツ軍曹に、多くの人がなってはいまいかと、自省する必要があるように思うのはわたしだけなのでしょうか?

いいえ、多民族に対してだけではありません。おなじ大和民族でありながら、新型コロナウイルスに罹患し、苦しんでいる人を、怠った悪人として罰してはいないでしょうか?だからこそ、「ワルシャワの生き残り」は後世に残すべき芸術だと、私も思うのです。

 


聴いている音源
アーノルト・シェーンベルク作曲
ワルシャワの生き残り」作品46
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
アントン・ウェーベルン
音楽の捧げもの」から 6声のフーガ(リチェルカーレ)
アントン・ウェーベルン作曲
オーケストラのためのパッサカリア作品1
オーケストラのための6つの小品 作品6(1909年オリジナル版)
オーケストラのための5つの小品 作品10
オーケストラのための変奏曲 作品30
ゴットフリート・ホーニク(語り手)
ウィーン国立歌劇場男声合唱
クラウディオ・アバド指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:ウェーバー フルート・ソナタ集

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はウェーバーのフルート・ソナタを収録したアルバムをご紹介します。

ウェーバーと言えば、私としては結構管楽協奏曲という印象が強いのですが、このアルバムもフルート・ソナタなのです。なぜか本当にウェーバーだと管楽器づいているんですよねえ。

大きなソナタと、小品程度のソナタと二つ、合計7曲が収録されていますが、どれもロマン派らしい流麗な作品ばかり。聴いていて楽しいです。

まず、「大きいソナタ」である、作品39。実はもともとはピアノ・ソナタ第2番。おっと!そうなるとウェーバーのピアノ・ソナタも聴きたくなるじゃありませんか!これがまた優美で、かつ二つの楽器による対話になっており、もともとピアノ1台用だったなんて思えません。さすが作曲者自身の編曲です。

そして、「小さなソナタ」である作品10。6曲からなる小品集の意味合いが強い作品です。二つの作品の成立年代には6年の差がありますが(作品39が1816年、作品10が1810年)、基本的に流麗な点は何ら変わりないのです。作曲できる規模が変わった、という印象です。

ですので、二つの作品にさほど月日の差を感じないんです。しかもです、「大きいソナタ」はもともとはピアノ・ソナタ。いやあ、ウェーバーって本当に才能豊かだったんだなあと思うと同時に、この二つの作品がかかれた時期は、ベートーヴェンの中期様式で、古典派交響曲が頂点を極めた時代なのです。

そんな時代に、ロマンティックなソナタ二つ。19世紀入りたてという時代は、なんと混迷かつ新しいものと古いものが同居し、それぞれに巨匠が出た時代だったかを感じます。古典派ではベートーヴェン、そしてロマン派ではウェーバー、そしてシューベルト。楽しい時代だったろうと思います(社会は大変な時代でしたけど)。

演奏するのは、フルートがパユ、ピアノがサジュ。ともにステディかつ生き生きとした演奏で、思わず体が動いてしまいます。二人とも、作品を楽しんでおり、まるでその世界の中で遊んでいるかのよう。それは作品への共感でもあるでしょうし、また彼らの作品から受けるインスピレーションの表現でもあろうと思います。その「遊び方」がこちらも楽しくなるんです。痛快活気持ちいい!

こういうとき、本当にフランスのアーティストたちは素晴らしいパフォーマンスをしますね。本当に期待を裏切りません。ウェーバーというベートーヴェンと同じ時代を生きた「新しい才能」を、存分に楽しむことができます。

 


聴いている音源
カール・マリア・フォン・ウェーバー作曲
フルート・ソナタ 変イ長調作品39
6つのソナタ 作品10
エマニュエル・パユ(フルート)
エリク・ル・サジュ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ワルターとコロンビア交響楽団のベートーヴェン交響曲全集4

東京の図書館から、シリーズで府中市立図書館のライブラリである、ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団ベートーヴェン交響曲全集をとりあげていますが、今回はその第4集をとりあげます。

第4集には第6番「田園」とレオノーレ序曲第2番が収録されています。第2番が収録されたのは珍しいと思います。演奏時間であれば、有名な第3番が収録されてもいいはずなのですが、ここではめったに演奏されない第2番が収録されています。

「田園」はベートーヴェンが名付けた標題としても有名ですが、単に風景を切り取ったのではなく、その風景の中にいる自分、その自分から見た印象と感情を記録した作品です。ワルターもその解釈を崩していません。

特にその解釈が大事になってくるのが第3楽章~第5楽章ですが、気象の移り変わり、そしてその移り変わりの中で映りゆく風景、そしてその変化の神々しさが存分に表現されているのが素晴らしい!

それにしてもです、コロンビア響は寄せ集めのはず、です。それでいて素晴らしいアインザッツとアンサンブル。ワルターという指揮者を単にリスペクトするだけでそれをたたき出せるとは到底思えません。そもそものレベルの高さ、です。

つまり、当時のアメリカは、寄せ集めでも十分普通のオケと同じようにセッションできる才能がそこら中にいた、ということです。もっと言えば、コロンビアは映画も手掛けており、その映画音楽を演奏するオーケストラもありました。母体はそれではないかと言われていますが、それにしても本来映画音楽専門のオーケストラが、クラシックも十分芸術と言えるだけのレベルをたたき出す、ということなのです。

それは、アメリカにおいて映画がはっきりと文化だった、ということを示しています。その映画という文化に、芸術家をつぎ込む・・・・・この発想、意外と日本人にはないんです。今でもクラシック・ファンは映画を下に見る傾向がありますし、映画音楽を手掛ける作曲家は低く見る傾向がありますが、アメリカ人からすればそれはとんでもない認識なわけです。

ハリウッド映画において、意外にも管弦楽がサントラで使われている例が多いことを、映画が好きな方ならお気づきだと思います。そしてそれがアメリカという国威発揚に関わるときは必ず管弦楽がつかわれているということまで、気付いている方はいらっしゃいますでしょうか?それがアメリカという国の文化的バックボーンなのですね。

ですから、コロンビアの担当者がワルターを訪ねたとき、特別オケを編成すると言ってのけたは当然だった、と言えます。コロンビアだったら母体となるオケを中心にいくらでも才能を集めることができる・・・・・そして、その背景をワルターも知っていたのではないでしょうか。であれば、すぐワルターが乗ったのも、当然だといえるでしょう。

おそらく、そのワルターの映画音楽へのリスペクトなどが、ワルターの評価を下げている一つの理由でしょう。え?ワルターの評価が低いってそんな馬鹿な!とおっしゃるかもしれませんが、では、なぜカラヤン批判でワルターではなくクレンペラーベームが出てくるのでしょうか?ワルタークレンペラーベームと同じ時代に活躍した指揮者だったのですよ?低く見ていなければスルーすることはあり得ません。

レオノーレが第3番ではなく、第2番というところにも、当時もそんな不毛な議論が沸き起こっていた様子がうかがえるように、私には思えます。しかもそれをカンタービレして演奏するなんざあ、どこかワルターのけんか腰すら、私には見えるのです。お茶目にニヤリとする、ワルターとオケの団員たちの表情が目に浮かぶようです。

さて、映画音楽を低く見る同胞の大和民族の皆様、どう考えますかな?

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
レオノーレ序曲第2番作品72a
ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。