かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ワルターとコロンビア交響楽団のベートーヴェン交響曲全集4

東京の図書館から、シリーズで府中市立図書館のライブラリである、ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団ベートーヴェン交響曲全集をとりあげていますが、今回はその第4集をとりあげます。

第4集には第6番「田園」とレオノーレ序曲第2番が収録されています。第2番が収録されたのは珍しいと思います。演奏時間であれば、有名な第3番が収録されてもいいはずなのですが、ここではめったに演奏されない第2番が収録されています。

「田園」はベートーヴェンが名付けた標題としても有名ですが、単に風景を切り取ったのではなく、その風景の中にいる自分、その自分から見た印象と感情を記録した作品です。ワルターもその解釈を崩していません。

特にその解釈が大事になってくるのが第3楽章~第5楽章ですが、気象の移り変わり、そしてその移り変わりの中で映りゆく風景、そしてその変化の神々しさが存分に表現されているのが素晴らしい!

それにしてもです、コロンビア響は寄せ集めのはず、です。それでいて素晴らしいアインザッツとアンサンブル。ワルターという指揮者を単にリスペクトするだけでそれをたたき出せるとは到底思えません。そもそものレベルの高さ、です。

つまり、当時のアメリカは、寄せ集めでも十分普通のオケと同じようにセッションできる才能がそこら中にいた、ということです。もっと言えば、コロンビアは映画も手掛けており、その映画音楽を演奏するオーケストラもありました。母体はそれではないかと言われていますが、それにしても本来映画音楽専門のオーケストラが、クラシックも十分芸術と言えるだけのレベルをたたき出す、ということなのです。

それは、アメリカにおいて映画がはっきりと文化だった、ということを示しています。その映画という文化に、芸術家をつぎ込む・・・・・この発想、意外と日本人にはないんです。今でもクラシック・ファンは映画を下に見る傾向がありますし、映画音楽を手掛ける作曲家は低く見る傾向がありますが、アメリカ人からすればそれはとんでもない認識なわけです。

ハリウッド映画において、意外にも管弦楽がサントラで使われている例が多いことを、映画が好きな方ならお気づきだと思います。そしてそれがアメリカという国威発揚に関わるときは必ず管弦楽がつかわれているということまで、気付いている方はいらっしゃいますでしょうか?それがアメリカという国の文化的バックボーンなのですね。

ですから、コロンビアの担当者がワルターを訪ねたとき、特別オケを編成すると言ってのけたは当然だった、と言えます。コロンビアだったら母体となるオケを中心にいくらでも才能を集めることができる・・・・・そして、その背景をワルターも知っていたのではないでしょうか。であれば、すぐワルターが乗ったのも、当然だといえるでしょう。

おそらく、そのワルターの映画音楽へのリスペクトなどが、ワルターの評価を下げている一つの理由でしょう。え?ワルターの評価が低いってそんな馬鹿な!とおっしゃるかもしれませんが、では、なぜカラヤン批判でワルターではなくクレンペラーベームが出てくるのでしょうか?ワルタークレンペラーベームと同じ時代に活躍した指揮者だったのですよ?低く見ていなければスルーすることはあり得ません。

レオノーレが第3番ではなく、第2番というところにも、当時もそんな不毛な議論が沸き起こっていた様子がうかがえるように、私には思えます。しかもそれをカンタービレして演奏するなんざあ、どこかワルターのけんか腰すら、私には見えるのです。お茶目にニヤリとする、ワルターとオケの団員たちの表情が目に浮かぶようです。

さて、映画音楽を低く見る同胞の大和民族の皆様、どう考えますかな?

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
レオノーレ序曲第2番作品72a
ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。