東京の図書館から、62回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、ヘルムート・リリンク指揮シュトゥットガルト・バッハ合奏団他による、バッハのカンタータ全集、今回は第17集を取り上げます。
この第17集には、第179番、第69番、第77番、第25番の4曲が収録されています。いずれも1723年にライプツィヒで書かれ演奏された曲なのですが、第69番は正確にはBWVでは69aと記載すべきですが、リリンクは第69番であるBWV69を選択しています。
①カンタータ第179番「心せよ、汝の敬紳いつわりならざるや」BWV179
カンタータ第179番は、1723年8月8日に演奏された、三位一体節後第11日曜日用のカンタータです。
冒頭合唱は多少古めかしさを感じる曲ですが、その曲を過度に飾り立てることをせず古臭さをそのままにしている点は、モダン楽器を使用しているにも関わらず評価できる点でしょう。どうも古楽器を貶めてモダン楽器を持ち上げる人たちはこのモダン楽器による演奏の本当のすばらしさが理解できていないように思います。歌に関しては他の演奏に比べてもかなり突き抜けた歌唱力を持っていると思いますが、ことオーケストラは性能がいいだけに、歌唱もそれに伴う歌唱をしなければならないという点が抜けているのです。それはともすればやりすぎになりかねないのです。リリンクの場合その「やりすぎ」に細心の注意を払っているのです。古楽器の場合に多少物足りなさを感じるときがあるのは、楽器の性能がそれだけモダンにくらべて低いからであり、そこでモダン楽器のように歌ってしまうとバランスを崩しかねないわけです。どこまで冒険しどこで抑制するかは、感情が入る音楽表現において究極の選択を強いられると言っていいでしょう。
リリンクがあえてモダン楽器を選択したと言うことは、そのさじ加減がしやすいという点もあるのだと、この演奏で気づかされます。特にこの第179番の内容を勘案すると、余計神経を使わざるを得ないわけです。単なる祈りの音楽ではなく、カンタータは礼拝で使われたという点が大事なのです。
私は実は、ある時期毎週教会に通っていた時期があります。別に他の宗教であったとしても参加することはできます。ちょうど英語の勉強がしたいと思い渋谷のバプテスト教会に毎週通っていた時期があるのです。そこで目にしたのは、まさに本物のキリスト教の礼拝です。いわゆる日曜礼拝ですが、そこに参加しますと、礼拝というものが単なる祈りではなく、むしろ道徳を説くものであるという感覚のほうが正しいという認識に至ります。むしろ「祈り」と言ってしまうほうが、神道だったりあるいは江戸幕府風の仏教だったりというものから抜けきれない思想だとも言えるのです(それが悪いというわけではなく、そういうものだということです。ただ、その宗教観は権力側の支配に都合が良かったということは知っておくべきでしょう)。
バッハのカンタータは是非とも歌詞を参照しながら聴くことをお勧めします。そのことにより曲が何を言いたいのかがわかってきます。そうすると、カンタータが単なる祈りだけではなく、むしろ人生をどう生きるかという徳目に重きが置かれていることに気が付きます。
②カンタータ第69番「わが魂よ、主をたたえよ」BWV69
カンタータ第69番は1723年8月15日に初演された、三位一体節後第12日曜日用のカンタータです。ちょうどこの第17集の第1曲である第179番が演奏された翌週に演奏されたということになります。
こういう時系列で並べるのはリリンクならではだと思うのですが・・・残念なのは、実は正確には第69番の初演は1723年ではなく、1748年なのです。目的も市参事会員交代式。教会で演奏されましたので教会カンタータにカテゴライズされていますが、実際にはかなり世俗的な儀式のための演奏だったと言えます。ただ歌詞は1723年初演時のものをそのまま再使用しています。実は本来はその1723年に演奏されたのは現在はBWV69aとしています。ですのでウィキペディアでも第69番ではヒットせず、BWV69aがヒットするようになっています。
この点では、バッハ・コレギウム・ジャパンの鈴木雅明のほうが優れています。必ず最初の版を使ったり、使えなければ後から収録したりしています。リリンクの演奏は優れている反面、学術的に使う場合には取り扱いに注意が必要です。実際この演奏もBWV69の方を採用しているため初演時とは第3曲と第4曲に関してはソリストのパートに変更が加えられています。具体的には第3曲がBWV69aではテノールですが、BWV69ではアルトに、第4曲がBWV69aではアルトですが、BWV69ではテノールに変えられています。おそらく教会儀式と市参事会員交代式とで雰囲気や目的が異なるためだと思われます。
ですので、本来1723年は三位一体節後第12日曜日用であるにも関わらず、リリンクは市参事会員交代式用で演奏して、しかし1723年初演のところに入れてきているというおかしなことになっているということは考慮に入れるべき演奏です。演奏自体は伸びやかで祝祭感にあふれた、モダン楽器と声楽のバランスがいい優れた演奏ですが、歴史的な観点に立っていると見せかけて実際は立っていないという点が残念な演奏です。
③カンタータ第77番「汝の主なる神を愛すべし」BWV77
カンタータ第77番は、1723年8月22日に初演された、三位一体節後第13日曜日用のカンタータです。
この曲も、歌詞を見ますとかなり道徳的な内容を含む曲です。冒頭合唱は聖書から取られており、実はその様式は4曲すべてにおいて共通です。こういう点を歌詞を見て理解することもまた、バッハのカンタータを聴く時のヒントの一つだと個人的には考えます。
この曲では、神を本当に愛しているかと問う内容であると同時に、神を愛することは隣人を愛することであると説いており、まさにキリスト教の「隣人愛」を神の名の下で出来るか?と問うわけなのです。これだけでも、単なる祈りの曲ではないことが明らかなのです。勿論歌詞の中には祈りの部分もあります。隣人愛が実現できるように神に祈る3曲目のソプラノ・アリアなどがそうです。ですがそれも「いかに神を愛することで隣人を愛せるか」と問うものになっており、祈りはその比喩として使われているのです。
その意味では、キリスト教、特にプロテスタントがですが、日本で言えば神道よりは仏教の禅宗の考え方に近いと言えます。座禅を組んだ経験がある方は、近いなと思わるかもしれません。座禅を組むと言うことは、徹底的に自身の内面と向き合い、悟りに近づく行為ですが、それは仏陀が悟りをブッダガヤで開いた時の行為をまねているわけです。カンタータも同様に、曲を聴くことによって自らの信仰の度合いを計り、振り返るための機会であるわけです。父方が曹洞宗である私は、カンタータはむしろ座禅のようなものという意識で聴くことが多いです。
リリンクはその徳育的な作品を、ドラマティックに演奏することで聴衆自身の精神や内面に引き合わせる効果を狙っていると言えます。そのためにやりすぎない「ちょうどいい塩梅」になっています。この第77番でも同様で、特にソリストのアリアやレチタティーヴォにおける楽器とのバランスが絶妙です。モダン楽器だからこそ多少オペラティックに歌わせたりなど、モダン楽器の時代に生き一方で古楽演奏も聴く世代だからこそのバランス感覚だと思います。
④カンタータ第25番「汝の怒りによりてわが肉体には」BWV25
カンタータ第25番は、1723年8月29日に初演された、三位一体節後第14日曜日用のカンタータです。
この曲も、一見すると、弱ったからだを神に直してもらえるように祈る内容と思えますが、それだけではなく、その病人である自分を、神に祈れるかと問う内容なのです。ですので冒頭合唱はかなり厳しく寂しい合唱になっていますが、しかし叫びのような部分もあります。そういう人間の内面があるからこそ、リリンクは表現としてモダン楽器が適切だと判断したと考えられます。勿論ピリオド楽器でも、バッハ・コレギウム・ジャパンのように可能ではあるのですが、この辺りはどれだけおのおのの楽器に鳴れているか、表現の経験があるかという点が重要になってきますので、どっちがとは言いにくい点だと思います。
2曲目のレチタティーヴォは、その「病人」は実は罹患していない私たち自身であると述べるのです。こういう内容をリリンクは踏まえたうえでモダン楽器を選択しているという点は、考慮する必要があると思いますし、また古楽器の場合、それだけ楽器に負担をかける演奏をすると言うことが、当時の人にとって何を意味するのかという点も重要なのです。私たちは20世紀音楽も聴いている世代ですが、初演されたときはまだそんな音楽などなく楽器の性能も今より低い時代。その時代において、苦しみや「病気」をどのように表現するのか、そしてそれを如何に比喩として使うのかは、大事な点だったと言えるわけなのです。その点もリリンクは考慮に入れ、声楽と楽器とのバランスを取っているわけなのです。むしろそのバランス感覚のほうが、特にこの第25番では前面に聴こえます。その効果が、内容から自らを考えるということにつながるということだと、個人的には考えます。
その点では、まさにリリンクはこの曲が「言いたいこと」をスコアリーディングの上で理解していると言えるわけなのです。それをモダン楽器で表現するにはどうすればいいかを考え抜いていると言えるわけなのです。
それを理解するためにも、歌詞を見ることは重要であり、できればドイツ語との対訳で、歌詞が何に立脚しているのか、例えば聖書なのか、コラールなのか、それとも台本作者に寄るのかが記載されているものが望ましいと言えます。ネットの時代であればあるほど、その対訳を選択できるかは重要です。自分が望む情報しかネットでは入ってこないからこそ、自分で意識して検索しないとたどり着きません。それがネットの特徴であり、自分が間違った検索をしてしまうと間違った方向に行きかねません。「テレビはもう古いメディアであって、SNSなどネットにこそ真実があるのだ!」という人は、是非ともバッハのカンタータを聴いていただいて衝撃を受けていただきたいと思います。おそらく頭をガツン!とやられることだろうと思います。それだけ、バッハのカンタータが今でも演奏されていると言うことは、普遍性があるからなのです。リリンクが表現したいことも明らかに「バッハの芸術の普遍性」であると言えましょう。
聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第179番「心せよ、汝の敬紳いつわりならざるや」BWV179
カンタータ第69番「わが魂よ、主をたたえよ」BWV69
カンタータ第77番「汝の主なる神を愛すべし」BWV77
カンタータ第25番「汝の怒りによりてわが肉体には」BWV25
アーリン・オジェー、カトリン・グラーフ、ヘレン・ドナート(ソプラノ)
ヒルデガルト・ラウリッヒ、ヘレン・ワッツ(アルト)
アダルペルト・クラウス、クルト・エクヴィールツ(テノール)
ヴォルフガング・シェーネ、フィリップ・フッテンロッハー(バス)
ヘルムート・リリンク指揮
ゲッヒンゲン聖歌隊
フランクフルト聖歌隊
シュトゥットガルト・バッハ・合奏団
ヴュルッテンベルク室内管弦楽団
地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。