かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ジュリーニとウィーン・フィルによるブラームス交響曲全集4

東京の図書館から、4回シリーズの小金井市立図書館のライブラリ、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるブラームス交響曲全集、最後の第4回は第4集、交響曲第4番と「悲劇的序曲」の演奏を取り上げます。

交響曲第4番は私はブラームスがたどり着いた境地とも言うべき作品ではないかと思っています。ロマンティシズムと古典的美しさの融合・・・・・これもロマン派という音楽運動でしょ?とブラームスが言いたいような作品だと思っています。

その視点でこの演奏を聴いてみると、その融合という意味では非常に素晴らしい演奏になっていると言えます。しかしそれは外面的な視点に過ぎません。そこにブラームスの「茶目っ気」がちりばめられているのですが、そのあたりの表現は幾分弱い気がします。はにかんだブラームス、という切り口。

それが悪いわけでもないですし、その表現力の高さのウィーン・フィルの演奏もうなるもので、説得力はあります。がしかし私の中ではどこか完全に賛同できない自分がいるんです。ジュリーニさん、何かを忘れていませんか?という。

生き生きの欠如・・・・・いやいや、ブラームス交響曲にそれを求めるのは酷でしょ?という人もいます。しかしいくつか音源を聴けばそんなことはないことは明白です。いくらでももっと細かく表現して表情をつけることは可能です。ましてやオーケストラは世界最高峰とも言うべき、ウィーン・フィル

ウィーン・フィルですからある一定のレベルはたたき出します。しかし指揮者が指示しないこともやるようなオーケストラは世界中どこを見渡してもありません。そのためウィーン・フィルだとしてもジュリーニが指示しないことをやる筈はありません。その視点で言えば、このジュリーニの解釈は私の美意識とはちょっとずれてるなと言わざるを得ないと思います。

誤解無きよう付言しますが、決してジュリーニをディスりたいわけではありません。しかし私がブラームスに対して持っているイメージとジュリーニが持っているイメージとでは異なるんだな、ということです。そこが聴いていてどこか釈然としないことにつながっているんだと思います。

少なくとも、素晴らしい演奏ですしお勧めの全集ではありますが、私自身はスマホなどに入れてでも聴いていたいという演奏ではないことだけは、言及しておきたいと思います。その意味では、好みが分かれる演奏でもあります。買うのではなくできれば図書館で借りてから判断するのがいいと思います。このご時世、図書館のそういう使い方もありだと思います。税金で視聴できるなんて、最高だとは思いませんか?

一方で「悲劇的序曲」は生き生きとした演奏なんです。交響曲と序曲とで変に差をつけるのも、あまり好きな姿勢ではありません。ジュリーニという指揮者が嫌いではありませんが、カラヤン同様、合う作曲家がいるのではないかと思います。

 


聴いている音源
ヨハネス・ブラームス作曲
交響曲第4番ホ短調作品98
悲劇的序曲 作品81
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

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