かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:浦川宜也とフランツ・ルップによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集2

東京の図書館から、3回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、浦川宜也とフランツ・ルップによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集、第2回の今回は2枚目に収録されている第5番、第7番、第10番を取り上げます。

そうなんです、番号順ではないんです、この全集。収録したときにそうだったのか、それともこのヴァージョンだけなのかはわかりませんが、とにかくディスクに録音できるだけ詰め込んでいる感じです。

それは逆に、浦川氏とルップの両名が、どのようなスタンスでベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを演奏しようとしているかを浮かび上がらせる役割も果たします。

聴いていますと、ヴァイオリンとピアノが対等であろうとしているのはわかりますが、しかし実際にはヴァイオリン優勢に聴こえてしまうんです。ピアノの演奏もダイナミックで表現力も豊かなので、決してヴァイオリンの伴奏に甘んじているというわけではありません。しかし其れ以上にヴァイオリンが歌いすぎてしまっています。

もちろん、ヴァイオリンが歌うことはとても大切ですし、私も好きな演奏です。実際この演奏のヴァイオリンが歌っていないと断罪したいわけではありません。むしろ実に雄弁に歌っています。しかしながら、ピアノに対して歌いすぎているために、対等であるはずの両楽器に差が生まれてしまっています。それは果たして、浦川氏が考えるベートーヴェン像なのかな?と考えてしまいます。

ただ、歌いすぎるほど歌っているということは、逆にその当時のベートーヴェン像に対するアンチでもあります。楽聖と持ち上げられ、神格化されたベートーヴェン像に異を唱える演奏であることは間違いありません。もっと人間的で、人懐っこい、ロマンティストなベートーヴェン像。決して神様ではないという現れです。その姿勢は高く評価されるべきでしょう。

この演奏が録音された1979年というタイミングは、我が国の音楽教育ではベートーヴェンはある意味神様のように扱われていた時代です。不屈の精神と言った部分だけにフォーカスすることで、ベートーヴェンの音楽を国民精神の教育に役立てようとする時代です。勿論その部分がベートーヴェンにはありましたが、しかしその精神を支えたのは、身分を超えた仲間の存在であったことは当時何も学校で教えません。

そして、ベートーヴェンが障害者ということは教えても、依存症者であるということは教えません。時に滑り倒しながらも芸術に身を捧げることで回復の道を探っていたということも教えません。当時マイノリティー中のマイノリティーであったということも教えません。しかしそのバックグラウンドなしに、ベートーヴェンの芸術は成立しませんでした。

浦川氏は、ヨーロッパにおいて日本とは違うベートーヴェン像に触れたはずなんです。そうじゃないと、歌いまくるヴァイオリンにはなりません。新しいベートーヴェン像に触れた日本人のパイオニアとして、この演奏はとらえるほうがいいのかもしれません。その意味では、及第点はあるのかな、と思います。バランスが悪いだけで決して楽譜をなぞるような演奏ではなくむしろ人間味あふれる演奏ですので、少し評価を改める必要があるように感じます。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調作品24「春」
ヴァイオリン・ソナタ第7番ハ短調作品30-2
ヴァイオリン・ソナタ第10番ト長調作品96
浦川宜也(ヴァイオリン)
フランツ・ルップ(ピアノ)

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