東京の図書館から、6回シリーズで取り上げております、タネーエフ・カルテットの演奏によるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全集、第5回の今回は第11番~第13番が収録されているアルバムをご紹介します。
第11番が作曲されたのが1966年。以降、2年ごとに第12番、第13番と作曲されます。晩年のショスタコーヴィチらしくすっきりしているのが特徴ですが、第11番は前年に亡くなったベートーヴェン四重奏団のヴァイオリン、ワシリー・シリンスキーの追悼として書いた作品ゆえに、悲しさと寂しさが同居するような作品に仕上がっています。
一気につなげて演奏されるのが通常ですが、タネーエフ・カルテットは一応2か所で分けており、第3楽章と第4楽章の間、そして第5楽章と第6楽章の間で僅かですが間を取っています。確かにそのあたりで雰囲気が変わるので、もしかするとこれはショスタコーヴィチがつけた「句読点」なのかもしれません。
第12番は2楽章しかなくかつ第1楽章はほぼ序奏扱い。つまりは事実上の1楽章のような感じですが、タネーエフ・カルテットはその物語性を重視して表現しているため、特段記載がないにもかかわらず、どこか晩年のショスタコーヴィチの「諦観」めいたものすら感じてしまいます。
第13番は本当に1楽章という作品。しかしショスタコーヴィチの寂しさをどこか物語るかのような演奏は、どこか心にしみてきます。
考えてみるに、第11番は7楽章もあり、第12番は事実上の1楽章、そして第13番はガチで1楽章と、構成はもう全く自在というか自由というか、もう何でもありになっています。その分、自由に表現できるというか、そういう奇をてらったものであっても何も言われなくなったという安心感と共に、そんな時代になったにも関わらず、共産党員ではないといろんなイベントに関われないなど、まだまだ不自由を感じていた心の内がつい出てしまった、というような印象を受けます。
その意味では、タネーエフ・カルテットの演奏は、同時代性という特徴を生かすことで、当時のショスタコーヴィチのアンビバレントな心の内を表現しているように思います。単にショスタコーヴィチの「証言者」に留まるだけでなく、自分たちの心のうちすら、演奏に込めているかのようです。言い方を変えれば、ショスタコーヴィチの芸術を借りて、自分たちの心と魂を表現している、というほうが適切でしょうか。
タネーエフ・カルテットの演奏からは、ショスタコーヴィチにとって弦楽四重奏曲とは、ベートーヴェン以上にプライベートなことを語るツールであったろうと、思わざるを得ないのです。だからこそ、交響曲以上に私の魂を貫き、揺り動かしていくのでしょう。
聴いている音源
ドミトリー・ドミトリエヴィッチ・ショスタコーヴィチ作曲
弦楽四重奏曲第11番ヘ短調作品122
弦楽四重奏曲第12番変ニ長調作品133
弦楽四重奏曲第13番変ロ長調作品138
タネ―エフ・カルテット
ウラジーミル・オフチャレク(第1ヴァイオリン)
グリゴリー・ルーツキー(第2ヴァイオリン)
ヴィッサリオン・ソロヴィヨフ(ヴィオラ)
ヨシフ・レヴィンソン(チェロ)
地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。