かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ラトルとウィーン・フィルによるベートーヴェン交響曲全集4

東京の図書館から、府中市立図書館のライブラリである、ラトルとウィーン・フィルによるベートーヴェン交響曲全集、今回はその第4回です。

第4集には第7番と第8番が収録されていますが・・・・・これも何故か第8番はリッピングできなかった代物。いやあ・・・・・

これは完全にリッピングできるかと思われたんですけれどねえ。第8番ができないというものまた不思議な現象です。よほどいい演奏だったのではと想像します。

それは第7番の演奏からある程度想像がつきます。第1楽章序奏でいきなりのテンポアップ!しかしそれが全く不自然ではなく、むしろ喜びが湧き上がってくるのを抑えられない!という気持ちにつながっているんですね。これは爽快!

そのあとの第1楽章第1主題はそれほどテンポアップせずむしろおとなしめなのに、聴いているこちらの心のざわめきというか、感情の発露というか!もうノリノリで、ああ、音楽を聴くって本当に素晴らしいよなあと聴き入ってしまいます。本当に素晴らしい演奏だからですけれど、それにしてもラトルとウィーン・フィルが紡ぐ「世界」へと一気に連れて行ってくれます。

思わず引き込まれるという表現のほうが適切かもしれません。ぐいぐい自分自身もその世界の一員になっている感じがします。いやあ、この全集で素晴らしい演奏はいくつもありますが、この第う7番ほど個性的かつ引き込まれる演奏はないと思います。

多分、第8番もそんな演奏だったのでしょう。けれども、リッピングできないくらいにしてはいけませんよ、ええ。CDプレーヤーならまだ聴けたかもしれませんが、おそらく音飛びは激しいのではと想像します。少なくともリッピングという行為は補正をしませんから、それだけ盤面のデータが毀損しているということを意味しますので。

確かに、CDは単なる「モノ」かもしれません。しかしその「モノ」に記録されているのは、人類共通の宝であり、それが市立図書館という市民共通の施設における資料であるなら、当然それは市民共通の宝なんです。その意識が希薄な人が多いのが残念です。

それは戦後民主主義個人主義だからだ!という人がいそうですが、私はその意見に反対です。むしろ個人主義が徹底されていないから、こんな自己中心的な行為をするのだと思っています。悪しき明治の全体主義がまだこの国に残っているため、こんな自己中心的な行為がはびこるのでしょう。本当に個人が大切にされていれば、他者に対する思いやりの心がはぐくまれるはずで、自然と図書館の資料を大切に扱うようになるでしょう。

私は仕事でそんな人をたくさん見てきましたので、それはほぼ断言できると言っても過言ではありません。現在はその業界からはちょっと離れていますけれど、しかし幼少期に心の傷を負った人は、大人になって問題行動を起こすものなのです。それは大人の責任でもありますし、そういう傷つき体験をさせることがしょうがないと匙を投げ続けてきた、私たち全員の責任でもあるのです。

ベートーヴェンの芸術を大切にしていく社会を創るためにも、この演奏を聴いて社会を変える勇気をもらったほうがいいのではないかなあと思います。その点でも、このラトルとウィーン・フィルの演奏には示唆するものがたくさん詰まっており、何度聴いても飽きません。それだけに、第3番と第6番、そして第8番はぜひとも揃えたいところだなあと思います。さて、どのようにしますか・・・・・DLやストリーミングが当たり前になってきた昨今で、これは実は切実な問題です。

え、第九が抜けていますけれど大丈夫?と仰るア・ナ・タ。実は第九は一番最初に保有したものなんです。以前「マイ・コレクション」で取り上げたラトルとウィーン・フィルの演奏がそれなんです。そう、あの演奏はこの全集からの分売だったんですね。あの当時、もっとベートーヴェン交響曲全曲に興味を持っていればなあと、実は後悔しているのです。

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聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第7番イ長調作品92
サイモン・ラトル指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。