かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:マゼールとウィーン・フィルによるマーラー交響曲全集9

東京の図書館から、シリーズで取り上げている小金井市立図書館のライブラリである、マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるマーラー交響曲全集、ようやく最後の第9集のご紹介となりました。

番号順に来ているこの全集、第9集は第9番となるわけですが、カップリングとして第10番も収録されています。二つを連続して聴くと、ある意味不思議な感覚に襲われます。それは、完全と不完全という二つが並ぶことによる、まさにモザイク模様。

ウィキの以下第9番の説明を借りれば、「後の1960年代後半から1970年代にかけて流行したコラージュ音楽の発想」がこのアルバムそのままのように感じられるのです。

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特に、第10番はどこか支離滅裂に感じられます。もちろん演奏はウィーン・フィルですからアンサンブルが支離滅裂だということではありません。ウィーン・フィルの豊潤なサウンドで聴くと、支離滅裂に聴こえる、ということなのです。

それは、第9番の時より、第10番作曲の時のほうがマーラーの状態がよくないということを如実に表しているようにも感じられます。

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このアルバムでは、第1楽章のみが演奏されています。それはほかの楽章はスケッチだけの状態だからということだろうとは思います。それは置いといて、このほぼ完成された第1楽章だけを見ても、美しいのだけれども、支離滅裂という感覚が否めません。ただ、それがマーラーの目指した芸術だったのかもしれませんし、あとで手を加えるつもりだったのかもしれません。

それは第9番でも指摘されている点で、この二つはマーラーが生前自分で指揮できていない作品です。第10番は死去によるものですから当然として、第9番も生前指揮できませんでした(1912年、ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィル)。そんな当時の状況が、この二つの作品にどこかしっちゃかめっちゃかな部分を感じる原因の一つなのだと思います。

そんなネガティヴな印象が、ウィーン・フィルだからこそしっかりと感じられますし、まただからと言ってそれが必ずしもいやではない感じがさすがウィーン・フィルだと思います。マゼールも奇をてらうことなく、オケを最大限鳴らすことに傾注しており、いい効果をあげています。

そう、どこか苦しみだとか、叫びだとかも感じられ、うわー、となる一方、響きがどこまでも美しいため、解説等を読めば、ああなるほどと納得もできる説得力。世界最高峰ウィーン・フィルだからこそできる技でしょう。こういう演奏こそ、プロだよなあと思います。一つ、この全集を聴いてマーラーの芸術に対する理解が深まった気がします。

 


聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
交響曲第9番ニ長調
交響曲第10番ヘ短調より アンダンテ~アダージョ
ロリン・マゼール指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

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