かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:デイヴィス指揮バイエルン放送交響楽団のブラームス交響曲全集3

東京の図書館から、シリーズで取り上げている小金井市立図書館のライブラリである、デイヴィス指揮バイエルン放送交響楽団によるブラームス交響曲全集、今回はその第3集をとりあげます。

不思議なことに、この全集、お分かりだと思うんですが、交響曲一つで一枚になっているんです。第2番と第3番とかはまとめてしまう全集もある中で、これは特徴的だと思います。これはこれで、わかりやすいですけどね。

さて、第3番。奇をてらわない直球勝負と言ったところで、ブラームスのいい意味での土臭さと、品の良さが同居する演奏です。途中第2楽章ではちょっとテンポ的にどうなの?とは思いますが、それでも説得力がある演奏。この辺りが本当にこのデイヴィスとバイエルン放送響のコンビは全く変わりありません。こういう安定感は本当に素晴らしい!

第2番などでも言いましたが、こういう「自分の美意識とは違うんだけど、いいと思う」演奏こそ、プロの演奏だと思うんです。それができないのならアマチュアと一緒だと思うくらいです(こういう点は辛口なんです、私)。っていうか、今どきアマチュアでも素晴らしい演奏をたたき出す時代。

ならば、プロに求められるものって何でしょう?それが、異なる他者に対して、その演奏を好みはしないけど、いい演奏ではあるよね、と納得させることができる表現力だと思うんです。その意味では、クルレンツィスは失格だと思っています。もちろん彼の個性は素晴らしいですし、それをある程度のレベルで提示するのは素晴らしいのですが、彼とその手兵たちが紡ぎだす演奏からは、感動が得られないのです。

一方、このデイヴィスとバイエルン放送響の演奏からは、じんわりと感動の波が押し寄せてくるんです。部分部分でこれは私の好みとは違うよね、という部分があるにせよ、です。そういう説得力は、クルレンツィスとムジカ・エテルナの、少なくともチャイコフスキー交響曲第6番では得られることができなかったのです。だからこその批判です。

もちろん、新しいベートーヴェンの「運命」では違うかもしれませんので、近いうちに購入したいとは思っています(ハイレゾで出ているため)。しかし、そのベートーヴェンで何も得られなかった場合、私は未来永劫クルレンツィスとムジカ・エテルナのコンビは選択しないと思います。音楽に激しさだけなんてありえないです。人間の感情は激しいだけじゃないですしね。そのあたりの表現力がデイヴィスとバイエルン放送響のコンビの魅力です。

完全に自分の好みと合う演奏など、そうそうお目にかかれることはありません。ないわけではないですが、それに巡り合うまでに人生のほとんどが過ぎ去っている場合だってよくある話です。ですから、全体的にこれいいな、と思えるかがカギだと思うんです。それが常にあるのがデイヴィスとバイエルン放送響のコンビ。しかしそれは奇跡的だともいえます。うん、まあいいよね、という演奏ならどこにでもあるかと思います。特に、20世紀の巨匠たちなら。しかし、その頻度の高さとなると、たとえばベーム、あるいはカラヤン、セルなどでもなかなかそうはいきません。デイヴィスとバイエルン放送響のコンビの頻度の高さは、おそらく私自身との美意識の距離が近いのだろうと思います。

こうなると、第4番も期待をしてしまうところです。

 


聴いている音源
ヨハネス・ブラームス作曲
交響曲第3番ヘ長調作品90
悲劇的序曲 作品81
サー・コリン・デイヴィス指揮
バイエルン放送交響楽団

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