かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:クープラン 修道院のためのミサ曲

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はアラン続きで、クープランの「修道院のためのミサ曲」をご紹介します。

なぜかアランの演奏はまとまってある、神奈川県立図書館。その中でもフランス・バロックの巨匠であるクープランの作品を演奏するのはフランス人なのですが珍しいともいえるかもしれません。何分、バロックと言えば古くはバッハしか聴かれないって時代が長く続きましたからね・・・・・

フランス・バロックはそうはいっても、ドビュッシーが再度見出した音楽でもあります。綿々と近代フランスでは息づいてきたと言っていいでしょう。そんなフランス人が弾く、クープランなのです。

え?「弾く」ってどういうこと?ミサ曲でしょ?って思いますよね。ただ、ウィキによれば、この曲は宗教曲ではなくオルガン曲のほうにカテゴライズされているんです。

ja.wikipedia.org

『2つのミサ曲からなるオルガン曲集』 Pieces d'orgue consistantes en deux masses (1690)のうちの、「修道院用ミサ曲 Messe propre pour les Convents de religieux et religieuses」がそれです。CDブックレットから書き写したものには、こうあります。

修道院のためのミサ曲(アンリ・デュ・モン第6旋法によるミサ通常文)ベネディクト会修道女のための聖歌(パラール、1664)」

とすれば、なぜこの曲がミサ曲ではなく、オルガン曲なのかは、おのずと明らかになります。つまり、通常文は第6旋法という旋律に則っているわけなので、合唱部分はその旋律であり、オルガン部分をクープランが作曲した、ということなのですね。

こういう部分、日本人だと奇異に感じるかもしれませんし、また、後期ロマン派が好きな人たちからは、なぜ既存の旋律を使って自分を出さないんだ!という批判もあろうかと思います。もちろん後期ロマン派という時代は作曲家の己を表現する時代なのでそれは当然なのですが、クープランが生きた時代は、むしろ既存の旋律と自分のものを組み合わせることも厭わない時代でもありました。もちろんその分、他者の要求に従うことも多かった時代で、作曲家が決して自立できているとは言えない時代でしたが・・・・・

とはいえ、クープランは壮大な世界を存分に歌い上げ、決まった旋律があたかもクープランの作品であるかのようにしているのはあっぱれだと思います。本来なら窮屈になってもおかしくないものを、むしろ自分の作品だとしてしまうほどの自在さなんです。これは脱帽ですね。

アランはそういった「自在さ」に価値を見出し、「歌っている」ように思います。オルガンがいかにも楽し気ですし。共和制であるはずのフランスで、こういった王政時代の作品も自在に演奏することに、羨望のまなざしを私は持ちます。逆コースじゃないと自在に弾けないなんて、日本はおかしいです、まぢで・・・・・・

多分、自分たちで民主主義を獲得していないからなんでしょうね。フランスが否定したのは王政であって、その文化ではありません。じゃないと菓子だとかがあれだけ庶民のものになどなっていません。制度として王政を否定しただけであって、その文化まで否定したわけではないし、否定したいなら表現すればいい、それが自由なんだと。

そういったアランの演奏を聴いていると、現在の嫌韓日本は本当に嫌に見えます。自分たちで決定したプロセスがないことを他者のせいにして、自国批判を否定し、他国批判のみ許す。こんなことは近代民主制の国ではありえないし、近代民主制だけでははく立憲君主制の国でもあまりない例です。しいて言えばヨーロッパではスペインでしょうか。それ以外の王国では日本よりも民主的なんですが・・・・・それは、市民が声を上げたからです。それに君主が答えたというわけです。そういった国はほとんど存続しているんですね。

フランスの場合、君主は聞かなかった。だから断頭台で斬首にもなっています。それがいいとは思いませんが、自分たちで決定するというプロセスを踏んだ国は、人を否定してもその文化までは否定しないんだなと、こういった演奏を聴きますと痛感させられるんです。だって、王政時代のクープランなんて捨てたっていいわけですし、それはドビュッシーもそうです。けれどもドビュッシーもこのアランもそんなことをしなかった。自分たちで民主主義を勝ち取った国で、伝統非難をしている国を私は知りません。ロシアですら、ソ連時代に連綿と東方教会の伝統をはぐくみ、守ってきました。

ではなぜ日本では伝統批判になるのかと言えば、自分たちで決定したプロセスがないうえに、自分たちがしでかした結果を引き受けることもしないからです。いわゆる責任の所在があいまいだったりとかもそういった精神構造の一つですが、簡単に言えば自分たちで決定するプロセスがないことが理由だと思います。単に勝ち馬に今まで乗ってきただけだったわけですから。だからアランのような自在な歌う演奏など、望むべくもないという結論にしか至らないわけです。

嫌韓を見ると、アランはどのように思うんだろうかって、もう恥ずかしくなります・・・・・・

 


聴いている音源
フランソワ・クープラン作曲
修道院のためのミサ曲(アンリ・デュ・モン第6旋法によるミサ通常文)ベネディクト会修道女のための聖歌(パラール、1664)
マリー・クレール・アラン(オルガン)
ジョゼブ・キャブレ指揮
コンパニエ・ムジカーレ・カタラーネ

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