かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:フルトヴェングラーのバイロイト第九

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、続けて第九と参りましょう!恐らく年末にまとめて借りてきたのだと思いますが、フルトヴェングラーバイロイトで指揮した第九です。

所謂、51年バイロイト第九と言われるもので、名演の一つとされています。なお、バイロイトとは、ワーグナーの楽劇を上演する音楽祭である、バイロイト音楽祭の事を指します。

バイロイト音楽祭
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E7%A5%AD

この演奏は、まさにその戦後復活したその年の演奏で、故に私がこれを扱う場合、私独自の視点が必要になります。多くの評論家が取り上げている演奏ですから。

取りあえず、フルトヴェングラーという指揮者がどういう人なのか、ウィキからさらっておきましょう。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC

激動の時代を生き抜いた人、と言えるでしょう。帝国主義の時代、戦争に翻弄された時代に、芸術に身を投じた人でした。私としては、フルトヴェングラーを語る時にこの視点を一番大切にしていますし、特にこの51年バイロイト第九を語る時に、必要な視点であると感じています。

確かに、解釈としては後期ロマン派の範疇に入る人だと思いますが、そうだと断定するのも確かに危険なんです。それをこの第九の演奏が如実に表している一方、この第九の演奏はとても特殊な背景のなかで生み出されていることも、考慮に入れる必要があると感じています。

まず、演奏内容としては、録音がモノラルであるにも関わらず、音の一つ一つがかなり明確に聴き取れます。さらに力強くしかし端正であり、のびやかです。名演と語り継がれるのも当然と言えましょう。ただ、考慮に入れるべきは、その演奏年代とオケ、合唱団、なんです。これを考慮に入れずに、だから今時の演奏は駄目なんだという論調が多くて、私は閉口しています。

1951年と言えば、まだ第2世界大戦が終わってから6年しかたっておらず、ドイツ国内もまだ廃墟が残っているという状況なのです。その上で、戦後初のバイロイト音楽祭、そのオープニングという条件です。だからこそ、オケと合唱団は「バイロイト祝祭管弦楽団、合唱団」なんです。これ、とても重要です。

ワーグナーと言えば、ドイツでは実はドイツ芸術の極致とされ、どちらかと言えば保守的な人たちに支持されてきた作曲家です。それがナチスに憑かワタことから戦後上演禁止となっていたのです。その復活を、そこに集う人たち、演奏家だけではなく聴衆も、ともに喜ぶという側面が、この演奏にはあるのです。

ですから、戦中の、ヒトラーの誕生日を祝う演奏のように、素晴らしいけど強迫的なものが一切なく、のびやか、なんです。それはいろんな「囚われ」から解放された、自由を謳歌し、ともに連帯する「仲間」として喜ぶ、という側面が働いた演奏だと言えるのです。

そんな特殊な状況が、戦後あるわけないです、殆ど。ないことこそ、平和であるという証拠です。恐らくドイツではその後相当するものはミュンヘンオリンピックにおけるテロと、ベルリンの壁崩壊ぐらいでしょう。ですから、これに相当する演奏がなかなか出ないのは当たり前なのであって、むしろそれを喜ぶことこそ、真に平和を愛するということになるでしょう。

その象徴と言える部分が、実は私がいつも問題にするvor Gott!の部分なんです。フルヴェンさんはここで、楽譜通り実はフェルマータを6拍しか伸ばしていません。しかし、一方で次のアラ・マルシアへ移るまでは、何と同じ程度の拍数を置いているんです!私が数えたところでは、5拍です。まるで残響をいつくしむかのように・・・・・

これは、まさにフルヴェンさんが言うとおり、古典派でも後期ロマン派でもない、フルトヴェングラーらしさが出ているのと同時に、バイロイトが復活したという、その事象を考慮に入れねばならないんです。フルヴェンさんも、そして演奏家も、人間です。影響を受けないわけがありません。

さらに、フルトヴェングラーと言えば、最後アップテンポで終わるというのも特徴の一つなんですが、これ、私も昨年末NHKFMの「ビバ!合唱」で特集していた時に慧眼だったのですが、この解釈は別にフルトヴェングラーの個性ではなくて、19世紀からの伝統なんですね。その意味では、フルヴェンさんは十分に後期ロマン派の影響を受ける音楽家だと言えるんです。けれども、それだけはない部分があるんだと言うことを、フルヴェンさんご本人は言いたかったのでしょう。

この解釈への挑戦が、実はカラヤンだったんです。カラヤンは録音で初めてと言っていいほど、この最後の部分で楽譜通りのテンポにこだわった人でした。そしてそれは、現在演奏のスタンダードになっています。一見すると熱くない部分が、フルヴェンさんのファンからは拒否反応となって表れているんでしょうが、私はそのカラヤンが示した解釈で、その後熱い演奏を繰り広げた人たちを知っているので、どちらも素晴らしいと受け入れることができます。むしろ、戦中のフルヴェンさんの演奏を賛美することが、果たしていいことなのだろうかと私は首をひねりますし、それはフルヴェンさん本人が望んだことなんだろうかって思います。

このように、いろんな背景、要素が綾のように入り混じったのが、この演奏であると言えます。それを考慮しない評論は、私はどうもなあって思っています。私はその様々な側面を考慮したうえで、この演奏は名演だと思いますが、だからと言って他の演奏を排除するようなことはしないというか、できないのです。




聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
エリザベートシュワルツコップ(ソプラノ)
エリザベート・ヘンゲン(コントラルト)
ハンス・ホップ(テノール
オットー・エーデルマン(バス)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
バイロイト祝祭管弦楽団及び合唱団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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