かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

コンサート雑感:メンデルスゾーン無言歌集全曲演奏会第3回を聴いて

コンサート雑感、今回は平成28年7月14日に聴きに行きました、メンデルスゾーン無言歌集全曲演奏会の第3回を取り上げます。

この演奏会は8回シリーズになっており、以前第2回を取り上げています。

コンサート雑感:メンデルスゾーン 無言歌全曲演奏会第2回を聴いて
http://yaplog.jp/yk6974/archive/1434

私が無言歌集に対して、どのような考えを持っているかは、上記のエントリでほぼ語り尽くしていると思います。今回もその念はまるっきり変わりありませんでした。

というよりも、対談している二人が、基本同じように抑えているからだと言えます。メンデルスゾーンが先達たちの作品なしにいきなり作曲するなんてことは出来ませんから。

その上で今回は、同時代の作曲家たちと比較をしたのでした。これが私にとってはとても興味深いものだったのです。

それぞれの巻を各回に充てて対談及び解説をしていくこのシリーズ、第3回という事は第3巻作品38を取り上げたわけですが、第3巻に留まらず、メンデルスゾーンは保守的と言われ、それゆえに評価されない時期もあったのですが、果たして本当に評価できないのか、という事です。それはウィキが投げかけてもいるわけですが・・・・・

フェリックス・メンデルスゾーン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3

今回比較したのは、ショパンとリストです。両人とも、技量を競うように作品を書き、互いに尊敬しあう中でした。この両人がベートーヴェン以降のピアノ作品をさらなる高みへと引き上げたのは間違いありません。芸術性だけではなく、その演奏技術もさらに磨きがかけられたのでした。

ところが、メンデルスゾーンはそれとは一線を画し、ひたすら弾きやすいなかで、高みを目指すにはどうしたらよいのかを考え続けた人であったことが、楽譜というエビデンスによって明確にされたのでした。例えば、リストの「ラ・カンパネラ」では音が飛ぶため、ピアノで弾くにはかなり苦労します。それは現在私が「神奈川県立図書館所蔵CD」のコーナーで指摘しているように、例えばラ・カンパネラはもともとパガニーニのヴァイオリン曲です。それを使ってピアノ作品にしたものですから、演奏が難しいのです。ラ・カンパネラはリストの作曲や演奏技術を多くの人に知ってもらうための作品です。悪く言えば、演奏及び作曲技術をひけらかす作品なのです。

しかし、メンデルスゾーンはそうではありません。当日は第3巻では第3曲で説明がありましたが、両手が動きやすい範囲内に音の動きは収まっています。その前提条件で無言歌集は作曲されているのです。どんなに動きが激しい、さすがのメンデルスゾーンもヴィルトォーソを見せる部分であっても、です。

リストが内容を重視していないわけではないんですが、メンデルスゾーンは人のよろこびや悲しみといった部分にフォーカスする作曲家だと言えます。第3巻を作曲していた頃はちょうどオラトリオ「聖パウロ」を作曲していた頃に重なりますが、「聖パウロ」自体が、人の生き方をテーマとした作品です。幻想的というか、想像の世界を巧な作曲技法で描いたリストとは異なり、メンデルスゾーンは「生きること」をテーマに置いた作曲をした、と言えるでしょう。彼にとって技法とはそれを表現するものでしかありません。

ですから私たち21世紀の人間にとっては、むしろとても古典的、あるいは保守的に聴こえるのです。ある意味、リストやショパンはかなり強迫的な作曲をする人たちだと言えるでしょう。ところが、メンデルスゾーンにはそういった点がないのです。

かといって、メンデルスゾーンに強迫的な点がなかったかと言えば、そうではありません。少年時代は癇癪持ちだったことは有名です。メンデルスゾーンが恵まれていたのは、両親がしっかりとメンデルスゾーンに向き合ってくれた、という点でしょう。その点が、リストやショパンとは一線を画すようになる、一つの要因であろうと思います。

臨床心理の現場において、このような家族の力動に焦点を当てることはよくあるのですが、その手法でリストとショパン、そしてメンデルスゾーンを見てみますと、リストやショパン、あるいはそれにシューマンを入れてもいいと思いますが、その3人はかなり家族の力動に翻弄されたことが作品の強迫性となって出ているのです。ところがメンデルスゾーンはそのような強迫性が作品にダイレクトに反映されていません。彼にとって作品は強迫性の吐露ではなく、吐露が終わってその後にさらに熟した想いを発露させる作業であったと言えるでしょう。

例えば、この第3巻を書いている途中でメンデルスゾーンが尊敬していた父が亡くなります。メンデルスゾーンの強迫性は実は父親との距離の近さですが(他の3人はどちらかと言えばネグレクト)、メンデルスゾーンが素晴らしいのは、悲しむだけ悲しむことで悲しみを手放して、それを棚卸の形で第3巻の第4曲に入れ込むだけにして、新しい生き方を選択することをむしろ第3巻で表現している点なのです。このことをお二人が指摘していたことはとても素晴らしくかつ重要な点だったと思います。

そのせいなのか、最後の瀬川氏の演奏は特に第4曲アジタートが感情たっぷりで素晴らしかったです。それは瀬川氏のメンデルスゾーンに対する「分かち合い」だったのかもしれません・・・・・

私は母を亡くしていますが、まるで瀬川氏を通して、メンデルスゾーンが私の前に現われたかのような経験でした。「仲間として同じ苦しみだったり、喜びだったり、分かち合っているよ」と、メンデルスゾーンに語りかけられているような気がして、とても幸せでした。

第4回も行きたいところですが、すでに予定が入っている関係で、次は第5回、つまり第5巻を聴きに行くことになりそうです。それまで私はしっかりと仕事をすることにいたしましょう。





聴いてきた演奏会
メンデルスゾーン 無言歌全曲演奏会 第3回
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ作曲
無言歌集第3巻作品38
瀬川玄(ピアノ、解説)
松本光生(解説)

平成28年7月14日、横浜鶴見、横浜市鶴見区民文化センターサルビアホール 音楽ホール

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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