神奈川県立図書館所蔵CDのコーナーのモーツァルトのピアノ協奏曲モダン演奏シリーズ、今回もぺライア/イギリス室内管弦楽団のものを取り上げます。
全く安心して聴いていられます。これが、本来モーツァルトが考えた「バランス」だろうと思います。
そう、あくまでも「バランス」です。ですから、それさえ実現できれば本来は私はピリオドでもいいだろうと思います。果たして、それはほかの演奏でも実現できているや否や?それは今後の私の課題となりましょう。
それを、このモダンの演奏は常に考えさせてくれます。この3曲ともそうですが、オケの華々しいアンサンブルと同時に、ピアノとオケとの会話もあって、彼の時代は本当にロココの終わりだったのだなと感じることができます。
正確にはロココは終わりを告げていますが、いまだその時代を引きずっていることは間違いなく、貴族社会の最後の輝きの時代でした。そんな時代を背景に、彼は美しくバランスのとれた作品、つまり造形美に優れた作品を作り続けました。
日本文化史が好きな方なら、こんな比喩ですとわかりやすいでしょう。ベートーヴェンが奈良天平期の仏像だとすれば、モーツァルトは建築(実際には仏像もありますが)なのです。とくに、この3曲はそれを感じます。
それを、ぺライアは室内オケとのアンサンブルを重視する演奏で表現しています。トゥッティでオケが飛び出してくるのはピリオドと同じですが、それでもピアノが負けていません。その上、オケとピアノは確実に会話しています。このあたりはその構造がわかりますととても楽しいです。
大切な人とまるで会話を楽しんでいるかのようです。モーツァルトの協奏曲をその観点ではっきりと語る人は最近あまりいないと思います。かつてはいろんな方がそれを論じていましたが、最近はちょっと減っていますね。もっとその観点は大事にしたいなと思います。
それまでの、モーツァルトですらヴィルトォーソで弾いてしまう傾向に、古楽を聴いたからこそモダンで問題提起する・・・・・これは素晴らしい演奏だと思います。もちろん、それはすでにマリナー/アカデミーで実現されていますが、はっきりとぺライアのように問題提起をした演奏ではないように思います。
本当はオケの人数をいじりました、弦の人数をいじりましたという解説があると一番いいのにと思います。マリナー/アカデミー、あるいはマッケラス/スコットランド室内でもそれがないのがちょっと残念ですし、もしもともと輸入盤ではあるとしても国内盤で解説する人がそれに言及しないのも残念です。
モーツァルトの時代まではその解説はもしかすると必須なんじゃないかと、この演奏を聴いてさえも思うのです。ベートーヴェンではさすがにそこまではいらないと思いますが・・・・・
実際、モーツァルトのピアノ協奏曲は初演がそれほど多くの人数が入るホールで行われていないということを考慮しますと、その点でピリオド演奏の是非やオケの編成などを考える時代に日本もなってきているのではないかという気がします。それは翻って、例えば東大寺大仏開眼供養時、いったい雅楽はどんな編成だったのだろうなどと考えるときに、リンケージしてくるのです。
ということは、もしかすると日本文化を正しく理解しないことにもつながりかねない・・・・・・そんな気がします。
聴いている音源
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲
ピアノ協奏曲第13番ハ長調K.415
ピアノ協奏曲第14番変ホ長調K.449
ピアノ協奏曲第15番変ロ長調K.450(正確には、この曲は第6集のものです。私がCD−Rに記録する関係で一緒になりました。)
マレイ・ぺライア指揮、ピアノ
イギリス室内管弦楽団