かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今日の一枚:ブルックナー 交響曲第9番ニ短調

今日は、ブルックナーの第9番です。ヨアフ・タルミ指揮、オスロフィルで、これだけ2枚組みです。

この曲につきましては、以下のページを参照してください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC9%E7%95%AA_(%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC)

第9番は遺作となった曲で、完成されているのは第3楽章まで。第4楽章は主題再現部までが残されており、主題再現部の一部とコーダの部分が未完成です。このCDはその未完成の部分を学者が完成させた演奏です。同時に、未完成のままの演奏も収録されています。つまり、かなりコアなファン向け、というCDです。

初心者がこんな演奏いきなり聴いていいのか?とちょっと戸惑ってしまいましたが・・・・・・

まあ、いただいた方がいらないよ、聴いてみてねって下さったものですから、自分の耳を信じて聴いています。

率直な感想は、かなり初期の作品からは世界が変わっているな、と・・・・・

いわゆる神々しさは、実は未完になった第4楽章にしか感じることができません。第1楽章から第3楽章までは、ワーグナーの影響がかなり強く、壮大ではあるのですが、かなりおどろおどろしい世界が広がっていて、ブルックナーがかなり苦労して書いたのではないかという感じを受けます。

構成的には、ベートーヴェンの第九がはっきりと意識されており、それは主調がニ短調であることと、第2楽章にスケルツォがおかれていることから明らかで、それは生前にブルックナー自身が認めています。しかし、根っからの第九ファンである私としますと、意識しすぎて、全体的にまとまりがないように感じます。

それぞれの楽章の音楽自体はとてもすばらしいのですが、全体のバランスはどうなのかといえば、ちょっとなあ、という感じです。完成まであと一歩、という感じです。この曲は校訂が入っていない唯一の交響曲ですから、もしかするとブルックナーとしてはもう少し手を加えたかったのかもしれません。

ブルックナー交響曲が完成した後でも手を加えた人なので、必ずといっていいほど版の問題がありますが、それは恐らく始めはこんなまとまりがないものを手を加えながら改良していったのでは?と想像させてくれます。その材料として聴きますと、なるほどなあと思います。

第4楽章の補筆部分も、ブルックナーらしい明るさはありますが、和音としては本当にそう?って初心者でも突っ込みたくなりますし、少なくとも、モーツァルトのレクイエムくらいに和音構成がスケッチとして残されていれば、また違っただろうなあと思わずにはいられません。すばらしい音楽であるだけに、残念ですね。

特に、第4楽章のスケッチを聴きますと、その思いはいっそう募ります。なるほど、第4楽章でこのように解決したかったのですね、と。

第4楽章はソナタ形式なので、古典派のようにある程度その先が推測できればいいのですが、ブルックナーの場合必ずしも同じ手法で推測できるわけではないようで、そこが補筆を難しくしているようです。第1楽章からして、きちんとしたソナタ形式ではないですし・・・・・

そういう意味では、この曲は次の時代を見据えた曲だったのかもしれません。それこそ、ベートーヴェンの第九のように、二つの時代、後期ロマン派と現代音楽をつなぐ曲にしたかったのかもしれません。そんな和音が第1楽章には見て取れます。それが、ワーグナーの音楽の影響下にあることと、第九の形式がそこかしこに見て取れることから感じます。

私は、未完に終わった第4楽章(スケッチ)が一番好きです。一番ブルックナーらしく聴こえるためです。ブルックナー・セクエンツがはっきりとありますし、和音的にもワーグナー的な感じからもっとポジティヴで明るい神々しさがあるからです。これが完成していたらなあと、惜しまれてなりません。


聴いているCD
アントン・ブルックナー作曲
交響曲第9番ニ短調(キャラガン完成版)
ヨアフ・タルミ指揮
オスロフィルハーモニー管弦楽団
(Chandos CHAN8468・9)