かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第11番ヘ短調作品95「セリオーソ」

今日は、第11番です。弦四も、中期最後の作品まで来ましたね〜。

セリオーソという標題はベートーヴェンが名づけています。意味は「真剣に」。その標題どおり、音楽には全体的に緊張感があり、それは最後まで貫き通されています。

この曲からしばらくは私も音源はアルバン・ベルクしかないのですが、そのアグレッシヴな演奏が、逆にこれほど合うなと思う弦四もそうないですね。彼らの表現はそれがとてもよく出ていると思います。

この曲は珍しく、第2楽章と第3楽章がつながっており、リッピングしたときに「あ、失敗した!」という曲のひとつです。まさか、ピアノ協奏曲じゃああるまいし、第2楽章と第3楽章がつながっているなんて、考えないですよ、4楽章形式で。

しかし、ここまで中期の曲はほとんどつながっているという、特徴どおりの構成です。このあたりに、ベートーヴェンが目指した独自性を見ることができるように思います。

けれども、ベートーヴェンが「真剣に」などという題名をつけたのはどうしてなのでしょう?どの曲も真剣だと思うのですが、それだけやはり室内楽曲は多少肩がこらないものと考えていたのでしょうか。そんな気もするのです。

ウィキペディアでは、歌うような表現がないとありますが、わたしもそう思いました。ただ、「音楽は無意味なものの羅列や無機質な機械的進行によって、人間的なものに対する一種の皮肉を表現しているといえる。」とまでは言えるのかどうかはわかりません。もしそうなのだとすれば、それはおいのカールとの関係があるのかもしれません。けれど、私はそういう雰囲気を感じませんでした。確かに、最後はいきなり明るく終わりますが・・・・・

それよりも、私はこの曲自体を「セリオーソ」と名づけたことに関心があります。なぜ室内楽曲をわざわざそう名づけたのか。ふざけて作曲したものなどひとつもないはずです。それは、上でも述べたとおりです。なのに、わざわざ真剣にという名前をつけたのです。私はそこに、おいカールとの関係をどうしても見てしまうのです。ベートーヴェンが一生懸命になればなるほど思い通りに行かず、挙句の果てには自殺を図ります。そんな関係が影を落としている、と言うのは考えすぎでしょうか。

また、機械的というのは、この2つまえの作品番号は交響曲第8番であると言えば、納得される方も多いのではないでしょうか。交響曲第8番では、ベートーヴェンは作曲にメトロノームを採用し、第2楽章はそれを表現した名曲といわれます。何となく、私はそれとの関係を感じます。musiker氏が仰るとおり、交響曲で実験したものを室内楽曲で花開かせたのであれば、実験が交響曲第8番であり、本番が弦四第11番であると考えられます。これほどぴたりとはまる曲もありません。そして、弦四が人間関係を表現しているものであれば、それは当時のカールとの関係を表しているのだと考えてもいいでしょう。状況証拠はそろいました。

勿論、これは資料に当たったわけではありませんので、そうだと断言できません。しかし、そういうアプローチから考えますと、この曲は非常にベートーヴェンの哲学にのっとった曲なのではないかという気がしてならないのです。アルバン・ベルク四重奏団はそのあたりをきちんと表現しているように私には聴こえまして、さすが多くの人が名盤と称えるだけあると、この曲に関しては思っています。