かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ドヴォルザーク弦楽四重奏曲全集8

神奈川県立図書館所蔵CDドヴォルザーク弦四全集も今回が第8回目。第8集まで来ました。収録曲は「アメリカ」と第13番の2曲です。

ようやく、彼の弦四では一番有名である「アメリカ」が出てきました。そう、アメリカというのはこんなにも後の作品だったのです。

え、そんなの常識じゃないの?だって、ドヴォルザークアメリカに居た時の作品でしょ?とおっしゃるア・ナ・タ。ええ、確かに。しかし、ドヴォルザークの代表曲であるこのアメリカにせよ、新世界にせよ、それはドヴォルザークの個性のひとつですが、すべてのように語られることが多いですよね?

しかし、あくまでもドヴォルザークの個性は、あくまでもスラヴ民族としての自分と、西洋の伝統も大切にする出自とのバランスを図ると言ったものです。その意味では、この「アメリカ」にせよ、「新世界より」にせよ、決してドヴォルザークの個性そのものを代表する作品ではありません。完成度が高いので代表的作品と言われるにすぎません。

だからこそ、私は形式や構成面から、ウィキの記述を批判したのです。そしてだからこそわざわざ「アメリカというのはこんなにも後の作品だったのです」と述べたというわけなのです。

第12番「アメリカ」は、1893年にわずか3日で完成され、1894年にボストンで初演された作品です。ここでドヴォルザークは「新世界より」同様、黒人霊歌やインディアンの旋律を多用しています。その点こそ、ドヴォルザークの作品である由縁だと思います。

弦楽四重奏曲第12番 (ドヴォルザーク)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC12%E7%95%AA_(%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AF)

私たち戦後世代は、ある意味偏ったアメリカ像というものに染まっています。特にその典型が西部劇でのインディアン偏見であり、そして黒人に対する偏見です。しかしドヴォルザークは、黒人霊歌とインディアンの旋律、そしていわゆる東部エスタブリッシュメントが好んだフォスターの民謡などを全く同列において、それを「アメリカの民族音楽」(私はむしろ「民俗」という言葉を使いたいくらいです)ととらえて作曲したという点にこそ特徴があるのです。それは、あくまでもボヘミア人としての彼の意識の延長線上なのです。

それを説明しないでこの曲こそドヴォルザークであるというのは、私は危険極まりないと思っています。

これ以降のアメリカの作曲家たちは、自らの民族というものをどうとらえるかということで悩みます。それは人種ごとに違うという、まさしく多民族国家であるアメリカのジレンマでもありました。しかしドヴォルザークはその彼の音楽的特徴からしましても過激なナショナリストではありません。ごく自然なナショナリストというべきで、だからこそアメリカの文化のあるべき姿を、この「アメリカ」で示したのだと私は思っています。そしてアメリカは60年代、公民権運動とともにそのドヴォルザークが提示した「アメリカが理想とすべき文化」を実現しようと、自ら汗をかいたのです。

それを意識してか、プラハ弦楽四重奏団は冒頭、彼方から歌が聴こえるかのように弦を響かせつつ歌わせてもいます(この部分は構想的にも面白い点が満載です)。まずインディアンの旋律から入ったという点を、このカルテットはとても大事に演奏しているなと思います。八分音符の処理の仕方もまるでモーツァルトで、それゆえに音楽が生き生きとしてきます。そしてそのことがかえって、この曲が「アメリカの音楽である」ということを雄弁に語ってもいます。それは西欧的だと批判されたチャイコフスキーとも通じる点だと思います。結果的に、チャイコフスキーの音楽はとてもロシア的な「気品」を持つのですから。

恐らく、彼らはこういった曲の背景をきちんと分析したうえで演奏しているのだと思います。こういった部分に目をやりますと、なぜこの演奏が名盤と言われるのかがよくわかります。

次に第13番ですが、この曲はドヴォルザークアメリカからの帰国後1895年に書いた曲です。第14番よりも着手が遅く帰国後に着手した曲であるにも関わらず、第14番よりも早くできてしまったために第13番になりました。

弦楽四重奏曲第13番 (ドヴォルザーク)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC13%E7%95%AA_(%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AF)

今度は一転スラヴ的な旋律となります。もし、「アメリカ」や「新世界より」こそがドヴォルザークであると言ってしまいますと、なぜここでスラヴ的になるのかが初心者の方のは全く理解不能になってしまうでしょう。単に帰郷したからというだけでは説明できません。そもそもが、彼はボヘミア人なのだということを理解しないと、「だから帰郷したのでスラヴ的なのだ」という理解へは至りません。

ドヴォルザークの音楽はその点で私は親しみやすい旋律だからこそ幻惑されると思っています。表面だけ見ていますとドヴォルザークの音楽の神髄が見えなくなってしまう・・・・・そんな気がします。なぜドヴォルザークボヘミア人なのにこんなにもアメリカ的なのだろうと聴き手に考えさせるようにしないといけないのではないかと思います。

実はこういったことを考えさせてくれたのは、先日ご紹介した宮前フィルなのです。1995年7月9日、第4回定期演奏会のメインがドヴォルザークの第8番でしたが、その時のプログラムに載った団員のコラムが、今でも心に残っています。

ドヴォルザーク交響曲は作品ごとにうまくなっている」

これはあきらかに、全集を聴いていませんとかけない言葉なのです。この時、宮前フィルはドヴォルザークはまだ数曲、しかも交響曲は他には「新世界より」(第2回定期演奏会)しかやっていません。なのにこういった言葉をコラムで書けるのは、全集を聴いていませんとできません。

だからこそ、私はモーツァルトの宗教音楽全集を買ったとも言えますし、県立図書館でこの全集を借りても来たとはっきりと言えるかと思います。もちろんなぜ、図書館へ通い始めた当初、ドヴォルザーク交響曲をすべて借りたいと思ったのか、そしてなぜアルバン・ベルクベートーヴェンの弦四を全部借りたのか、そしてその後なぜ全集にこだわったのかは、この一文がすべての始まりだったからです。

今こうしてドヴォルザークの弦四を全集で俯瞰してみますと、今まで常識と思ってきたことが実は異なるのではないかという「視野の広さ」を、私に与えてくれているように思います。



聴いている音源
アントニン・ドヴォルザーク作曲
弦楽四重奏曲第12番ヘ長調作品96 B.179「アメリカ」
弦楽四重奏曲第13番ト長調作品106 B.192
プラハ弦楽四重奏団



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