かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今日の一枚:チャイコフスキー「悲愴」、ブラームス交響曲第3番他(2枚組み)

今回も、マイミクさんからの「おまけ」をご紹介します。フルトヴェングラー指揮の2枚組みです。オケはどちらもベルリン・フィルです。これも録音年代が1950年前後です。

全体的には、「悲愴」はやや迫力に欠け、ブラームスの3番のほうが迫力があり、すばらしいかなあと思います。

特に、悲愴は残念な点が二つあります。一つがライブ音源かと思いますが、拍手がカットされているという点。もう一つは、悲愴感がいまいち伝わってこない演奏の不発さです。

悲愴といいますと、やはり慟哭のような感情を前面に出す演奏を期待してしまいます。それがいまいち感じられなかったのです。

フルヴェンさんのダイナミックさは健在ですし、アンサンブルはすばらしいのです。しかしながら、それでもいまいち感をぬぐうことができません。

なぜかなあ、と思いながら聴いていました。一方のブラームスはそこまでやるか!というほどダイナミックですし、またアンサンブルも完璧です。聴いていてブラームス特有の陰影が払拭されています。むしろ、さわやか感すらあります。

考えてみますと、この時期はまだ終戦から数年しかたっていないのですね。おそらく、そういう時期的なことが演奏に影響したのではないか、という気がします。

フルヴェンさんもナチとの関係でいろいろありましたし、団員もおそらく何かしらの形で戦争に関わっているはずです。いろんな感情があったはずです。

それを彷彿とさせるのが第4楽章で、ダイナミックさが影を潜めます。しかし、最後の最後でためにためたものを吐き出すかのごとくにクライマックスを持ってきます。この点から、素直に何か感情を出せない空気を感じるのです。

悲愴という曲は精神的に不安定なときには聴いてはいけないとも言われます。自殺に結びつくからだそうですが、私もそれは同感です。それだけ、この曲にはエネルギーがあるといってもいいでしょう。

ですから、本来はフルトヴェングラーだからこそ、もっとそれを出して欲しいと私などは考えてしまうのですが、彼らからすればそれは勘弁してくれ、いやなことを思い出してしまうから、ということなのかもしれません。

傷ついた心を癒すのには年月がいるのだなと、感じざるを得ない演奏です。


聴いているCD
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲
交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
ヨハネス・ブラームス作曲
交響曲第3番ヘ長調作品90
ハイドンの主題による変奏曲作品56a
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(TC-103)