かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:シューマン 1840年の歌曲集

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、シューマンが作曲した歌曲集のアルバムをご紹介します。

シューマンと言えば、交響曲ピアノ曲がすぐ想起されるかと思いますが、「歌」の作曲も数多く行った作曲家です。私のような元合唱屋ですと合唱曲の方が想起されます。

そのためか、歌曲も数多く作曲しています。そんな中で、結構有名な歌曲集が「リーダークライス」ではないでしょうか。実は2つあり、作品24と作品39です。ここには作品24が収録されています。

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そもそも、シューマンが生きた時代、文学と音楽が深く結びつくようになった時代です。その先鞭はベートーヴェンが付けましたが、盛んになったのは前期ロマン派からです。そんななかでシューマンの歌曲は生まれていくことになります。作品24もそんな時代を反映して、ハイネの詩に作曲されたというわけです。

そこには、自己のしたい表現をするという、ロマン派音楽運動の基本が貫かれています。2曲目の「ペルシャザル王」もそんな作品。旧約聖書の「ダニエル書」第5章に記載がある王で、その王の悲劇的な最期が表現されていますが、これはおそらく、旧約聖書を借りたシューマンなりの批判精神だったのだろうと思います。

franzpeter.cocolog-nifty.com

最後は4つある「ロマンスとバラード」、その4つすべてを収録。全ての曲が味わい深く、魂を揺さぶります。

こう書きますと、単なるシューマン歌曲入門編なの?と思う人も多いかと思います。そういう役割もあるとは思います。しかしそれなら、年代はもっとばらけていいと思うのですが、実はここに収録されている作品はすべて、1840年もしくは41年に作曲された作品なのです。「ロマンスとバラード第4集」以外はすべて1840年の作曲なのです。

ウィキでシューマンの生涯を見てみますと面白いことに、この1840年という年はシューマンの人生において様々な変化が訪れた年です。クララとの結婚、そしてシューマン自身が低く見ていた「歌」というものに対する卑下を捨て、その「歌」を次々に作曲したという転回の年なのです。

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実際、1840年シューマンの人生において「歌曲の年」と後世言われるようになります。おそらく、シューマンは歌を低く見るということが、本当に自分が目指す芸術なのか?と反芻したのではないでしょうか。クラシック音楽の歴史は、人間の「声」をいかに楽器で表現するかという歴史でもあります。ですから、簡単に人の「声」に頼るのはどうか?と思っていた節があります。しかし、クララとの出会い、そして結婚ということが、シューマンを動かした可能性は高いでしょう。なぜなら、クララはすでに歌曲を作曲していたからです。

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クララは夫ロベルトの影に隠れていますが当時優れたピアニストであり作曲家でした。もっとクララの作品は録音され、コンサートピースになってもいいと思うくらいです。シューマンは彼女の才能を含めたすべてに恋をして結婚したとすれば、当然クララに触発されたということがあっても不思議ではないわけです。

そのことを踏まえた結果なのか、歌うのは当代きってのコントラルト、ナタリー・シュトゥッツマン。人間の喜怒哀楽がしっかりと表現されていることが、私の魂を貫いていきます。シューマンの歌曲に秘められた「生命力」というものが引き出され、シュトゥッツマンが「イタコ」のような役割を以て、私の魂に至っているというような感じです。歌詞がすべてわかるわけではないんですが、それでも生命力が魂を貫いて行くのは変りません。

シューマンの人生を変えたともいうべき、1840年。その「転回の年」は「歌曲の年」として記念され、作曲された歌曲たちはいまだにその生命を放ってやまないのです。

 


聴いている音源
ロベルト・シューマン作曲
リーダークライス 作品24
ベルシャザル王 作品57
ロマンスとバラード第1集作品45
ロマンスとバラード第2集作品49
ロマンスとバラード第3集作品53
ロマンスとバラード第4集作品64
ナタリー・シュトゥッツマン(コントラルト)
インゲル・ゼーデルグレン(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ラ・ストラヴァガンツァ・ケルンによるバッハの管弦楽組曲②

東京の図書館から、2回シリーズで取り上げています、小金井市立図書館のライブラリである、ラ・ストラヴァガンツァ・ケルンによるヨハン・セバスティアン・バッハ管弦楽組曲を取り上げていますが、今回はその第2回です。

この2枚目には、第3番と第4番、そしてシンフォニアとしてカンタータ第146番の第1曲目が収録されています。実は・・・・・

これは1枚目でも一緒だったのですが、このシンフォニア、単なるカップリングとして収録されているわけではありません。このカンタータシンフォニアを真ん中において、管弦楽組曲をまるで鏡像カンタータのように置いているのです。

第3番の2曲目は「G線上のアリア」として編曲されてもいますが、そんなことよりも!管弦楽組曲を鏡像カンタータのようにしているその収録内容!これぞ特徴です。

そんな内容を楽しんでいるかのように、ラ・ストラヴァガンツァ・ケルンのメンバーたちは演奏しているように聴こえるのです。だから「G線上のアリア」にこだわっていませんし、だからと言って一つ一つの曲がおざなりにもなっていないんです。持っている精神が、魂に響いてくるんです。

もしかすると、実際にコレギウム・ムジクムで演奏した時には同じように途中にシンフォニアを入れながら、まるで鏡像カンタータのように演奏していたのではないかと思わんばかりです。となると・・・・・

偽作と現在は判定されている、第5番がなぜ作曲されたのかが、推理できるように思います。つまり、第3番を真ん中として管弦楽組曲だけで鏡像カンタータのように演奏できるように「誰かがした」、ということです。そんなことができるのはやはり、フリーデマン辺りではないかという気がします。

その意味では、第5番が現在解説等でも抜かれているのは当然だともいえるだろうと思います。しかしもし第5番の作曲がフリーデマン・バッハだったとすれば、それは時代の流れに沿ったものでもあったはずです。「歌」がない管弦楽だけの「鏡像」を、父が作曲した作品で示したかった・・・・・そう思うと、フリーデマンの気持ちもわかるなあという気がします。

こういう収録もいいなあと思います。その意味では、そりゃあ日本コロンビアとしては「悲しい」だろうなあと思います。

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ハイレゾ相当で聴きますと、空気感も素晴らしいですし、録音もいいのだと思います。生命力はあふれてこぼれていますし、聞いていて本当に楽しいですし、また魂が喜んでいるので勇気すら湧いてきます。バッハが生きた時代と自らの人生が反映されたのが管弦楽組曲だとすれば、楽しそうに見えて実は魂に響くものをもつ精神性の高い作品だと言えるのではないでしょうか。その証拠がこの演奏だと私は判断しています。

 


聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
管弦楽組曲第3番ニ長調BWV1068
カンタータ第146番「我らは多くの艱難を経て」BWV146よりシンフォニア
管弦楽組曲第4番ニ長調BWV1069
有田正広フラウト・トラヴェルソ
クリストフ・レーマン(オルガン)
アンドルー・マンゼ指揮
ラ・ストラヴァガンツァ・ケルン

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ラ・ストラヴァガンツァ・ケルンによるバッハの管弦楽組曲①

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、ラ・ストラヴァガンツァ・ケルンによるバッハの管弦楽組曲のアルバムを2回に分けてご紹介します。

バッハの管弦楽組曲は、すでにモダンの演奏を神奈川県立図書館で借りてリッピングしてありますが、今回は古楽の演奏。しかも、新バッハ全集に基づき、第5番は割愛されています。

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実際、この演奏、リッピングしたデータには、第1番と第2番にはOuvertureと表記されています。確かに、バッハの時代の慣習に従えばそれで正しいと思います。ですが・・・・・

組曲というものの定義は、時代により変わります。ロマン派以降の定義であれば、この作品は明らかに組曲です。そういった時代による定義の違いが、この作品には付きまとっていると言えるでしょう。

とはいえ、私たちはバッハが紡いだ作品を、ただ受け取ればいい、そう思います。バッハもこの作品を当時の慣習で「序曲」としましたが、むしろ序曲を中心とした管弦楽作品を集めたもの、という感覚があったのではないかと思うのです。

基本的には、この作品は舞曲集なので、組曲と同じと言えます。ですが組曲の定義からは外れる。こんな組み合わせもあるんじゃないの?というバッハの意志を感じるんです。ただそれを楽しめばいいんだよ、みたいに言われている気がします。

この演奏も、奇をてらうことなく、作品を楽しんでいる様子が見えるのが聴いていて爽快です。肩に力が入っておらず、それが生命力ある演奏になっているのが素晴らしく、聴いていて疲れもしません。それでいて、魂が喜びも感じている精神性。幸せとしか言えません。

ラ・ストラヴァガンツァ・ケルンはかなり実力のある団体の様で・・・・・

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それは聴けば確かだと思います。しかしそこを私は強調したいのではなくて、実力があるがゆえに、さらりと演奏しているのにもかかわらず、魂が喜んでいるという点なんです。これぞプロだよね~って思います。バッハが生きた時代はマウンダー極小期後の、ようやく明るさが見えた時代。隠された苦しみが現れた音楽につい、自分の魂が共鳴しているのだろうなと思います。その触媒としてのこの演奏があるんだと思いますし、それは演奏者たちもまた、魂で喜んで演奏しているからこそだと思います。

 


聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
管弦楽組曲第1番ハ長調BWV1066
カンタータ第29番「神よ、我ら汝らに感謝す」BWV29よりシンフォニア
管弦楽組曲第2番ロ短調BWV1067
有田正広フラウト・トラヴェルソ
クリストフ・レーマン(オルガン)
アンドルー・マンゼ指揮
ラ・ストラヴァガンツァ・ケルン

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ベルク追悼コンサート

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、1936年5月1日に開催された、アルバン・ベルクを追悼するコンサートを収録したアルバムをご紹介します。

アルバン・ベルクというと、むしろその名を冠したカルテット、アルバン・ベルク四重奏団を想起する人も多いかと思います。ではその作曲家自身はどれだけ認知されているのかと言えば、それほどでもと言わざるを得ないのではないかと思います。

我が国ではオペラ「ヴォツェック」や「ルル」で有名ではあると思うのですが・・・・・

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実は結構いろんなジャンルを作曲している人でもあります。特に12音階や無調を使った作品で優れたものを世に送り出したことのようが、功績としては大きいのではないかと私は考えています。

ベルクは交友も広い人でした。シェーンベルクにヴェーべルン、アルマ・マーラーなどなど・・・・・当時のヨーロッパ知識人たちを横断するような人であったことも、また確かだと思います。

それゆえなのか、ナチスからは目を付けられることになりました。ベルクはユダヤ人ではなかったにも関わらず、音楽が無調もしくは12音階だというだけでその音楽が退廃音楽指定されてしまいます。これはほぼ間違いなくナチスがベルクの持つ「力」を恐れたが故だろうと想像しています。ユダヤだろうがそうでなかろうが、芸術の仲間として付き合う姿勢に力を感じ、恐れたのだと思います。

実際、その証拠がこの録音だと言えます。まず、1曲目を指揮するのがウェーベルンヴェーベルン)。かれはベルクと交友のあったユダヤ人でした。そして「抒情組曲」を演奏するのはガリミール弦楽四重奏団。これはユダヤ人であるフェリックス・ガリミールが設立したカルテットで、実際ガリミール自身もウィーン・フィルに入団後迫害を受けて退団しており、それがちょうどこのコンサートの年でした。

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自分たちユダヤ人に対する友好を、終生誓った人だったという、ベルクの人徳により集まって開催されたのが、このコンサートだと言えましょう。オーケストラはBBC響。ですのでおそらくBBCによって放送されたものがディスクになったもの、と考えていいでしょう。この元音源はおそらくPHILIPSだと思うのですが、一方でTESTMENTからも出ています。ということはマスターテープがあるということを示していますので。

classic.music.coocan.jp

当日のコンサート・ピースが2曲だけだったのか、それ以上あったのかまでは私も把握できていません。しかしこの2曲というのはとても意味のあるものです。ヴァイオリン協奏曲はベルク自身が悲報を受けて作曲したものでした。

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そして抒情組曲は、弦楽四重奏にとって12音階を使うという、とても知的冒険に満ちた素晴らしい作品であった、ということです。

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そしてこの二つの作品が並ぶことにより、ベルクの豊かな才能、そしてそれを表面的な評価だけで葬り去ろうとしたナチスへの批判も見て取れます。

二つとも聴いていますと、どこかに「悲しみ」を感じるんです。今風で言えば「ベルク・ロス」。その悲しみが、自然と演奏のどこかに顔を出す・・・・・1936年の録音ですから当然モノラルなんですが、それでも演奏者の深い「悲しみ」をどこかに感じる演奏なのです。

こういった演奏を聴きますと、12音階というものも必然の音楽手法だったのだと腑に落ちます。現代の演奏家たちにも投げかけるものは多大なものがあるのではないかと思います。今聴いても全く色あせない、素晴らしい演奏だと言えるでしょう。

 


聴いている音源
アルバン・ベルク作曲
ヴァイオリン協奏曲
抒情組曲弦楽四重奏のための
ルイス・クラスナー(ヴァイオリン)
アントン・ウェーベルン指揮
BBC交響楽団
ガリミール弦楽四重奏団
 フェリックス・ガリミール(第1ヴァイオリン)
 アドリアンヌ・ガリミール(第2ヴァイオリン)
 ルネ・ガリミール(ヴィオラ
 マルグリート・ガリミール(チェロ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:山田和樹が振るマーラーの「復活」

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団他の演奏によるマーラー交響曲第2番「復活」を収録したアルバムをとりあげます。2枚組ですが、今回は「復活」という曲の内容を鑑み、一つとして扱います。

この演奏、私はとても素晴らしく、特に合唱団は秀逸だと思っているのですが、世の評価はいまいちのようです。それは今の日本を象徴しているとも言えるのかもしれないなと思っています。

それは、この演奏の代わりに評価されているのは、なんと言っても小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラのものです。確かにオーケストラはいいんですが、クライマックスの合唱が少しおざなりなんですよねえ。アマチュアが実力不足だから、ではありません。正月にアマチュアを使ったから、だと言える演奏だと私は判断していて、あまり評価はしていない演奏です。

一方で、この山田和樹が指揮するものはオーケストラと合唱共に生き生きとしていて、「復活」という作品が持つストーリーも明確で、全体的にはとても素晴らしい演奏になっているのですが・・・・・

おそらく、評価が低い理由は以下の通りでしょう。

①指揮者が若い
山田和樹はようやく売り出してきたと言える指揮者です。それと巨匠小澤と比べればねえ・・・・・って声が聴こえてきそうです。ですがそれは両方を聴いた結果ですか?いまや日本人の若い指揮者でいくらでも生きのいい人がいることが、このコロナ禍ではっきりしました。そろそろ小澤も若い人に譲ってもいい時期だと思います。小澤の役割りは終わったと思っています。

②合唱団なんて関係ない
「復活」という作品が、そもそも詩にインスパイアされた作品です。そのため合唱部分も結構ヴォリュームがあります。しかも、後期ロマン派の交響曲は第4楽章(最終楽章)にこそ言いたいことを持ってくるというのが基本。であれば、合唱が入っている最終楽章の第5楽章こそ、マーラーが「復活」という作品で言いたいことであったはずなのですが、オーケストラ偏重でそれを無視するとおっしゃるのですか?

③レーベルが聞いたことがない
おそらく、元レーベルは「Exton」だと思いますが、これはオクタヴィアレコードと言って、日本のクラシックの演奏を収録することで有名なレーベル。しかもその演奏レベルは決して低くないことで静かな人気を持つレーベルです。知らないだけでぶった切るのですか?

これらはすべて、実は日本の没落と深くかかわっている思想です。勿論、小澤がダメと言いたいわけではありません。2002年の「第九」は素晴らしい演奏ですし、そして最近でも水戸室との第九も素晴らしい演奏でした。だからとって小澤以外は指揮者じゃない!って「小澤の」ファンが言うのならともかく、一クラシックファンがあまりにも神格化して評価してしまうのはどうなのかなって思うところなのです。

日本の没落は、ほぼこの「神格化」から始まっています。原発の安全性、保守政治の安定性、そして終身雇用・・・・・それぞれを「神格化」してしまったことが、すべての始まりであるように思うのは私だけなのでしょうか?これを語りますと長くなりますので、あえて割愛しますが。

日本にははっきり言えば「歌劇場」がないんです。もちろん新国立劇場がありますが、ではそこでたたき上げられた指揮者は今いますか?いないですよね。しかしその代わり、アマチュア合唱団などで指導している指揮者が大勢いるんです。その人たちのタクトは実に生命力あるものであることが多いのをご存じですか?それは我が国に置いて「歌劇場でのたたき上げ」と同じ役割を果たしています。

しかし、その合唱活動を阻害してきたのは、大資本などに象徴される旧勢力でした。それに乗ってきて大きな果実を受けってきた労働貴族たちです。さらに言えば、その人たちを批判せずに、左翼を叩いて来た保守勢力です。この演奏をあまり評価しないというのは、その状態そのものだなあって思います。

山田和樹が指揮するものはどれも生命力に優れた、魂に響く演奏ばかりです。このマーラーの「復活」もしかり。ロケーションは私が持っている尾高忠明指揮東京フィルと同じ東急Bunkamuraオーチャードホール。ホールを存分に「楽器」として使い、オーケストラを壮麗に鳴らしているのも好印象です。そのうえで鳴り続ける、合唱による「復活」のメッセージ・・・・・その熱量も素晴らしく、魂が揺さぶられます。

特に合唱団は、山田和樹が携わる団体。プロの東京混声合唱団と、アマチュアの武蔵野合唱団。どちらも高い表現力は、「歌」があるこの交響曲にしっかりとしたメッセージがあることを、私たちに印象付け、そして魂を貫いていく・・・・・これぞ、マーラーが「復活」という作品で描いて見せようとした「宇宙」ではないかと思います。そんな演奏が、日本の団体、ソリストだけで味わえる・・・・・なんと幸せなことでしょうか。

toukon1956.com

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いずれ、山田和樹は我が国を代表する大指揮者になると私は確信しています。それは彼が今日本で歩んでいる道筋は、ヨーロッパでは歌劇場たたき上げと同じ道筋だからです。この演奏が「小澤を凌駕した!」と将来必ず言われるようになることでしょう。最後に付言しておきますが、小澤と違い、この演奏は2月。アマチュア合唱団の指導に携わっている山田和樹ならではの配慮と、それによるハイパフォーマンスだと思います。

 


聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
交響曲第2番ハ短調「復活」
林正子(ソプラノ)
清水華澄(アルト)
東京混声合唱
武蔵野合唱団
山田和樹指揮
日本フィルハーモニー交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

想い:コンサートマナーは絶対に正しいのか

久しぶりの「想い」、今回はコンサートのマナーについて考えます。

今、ネット上で話題になっているのが、横浜みなとみらいホールの改築で新しくできた「網」です。2階席のバルコニー部分に網をつけ、チラシなどが下に落ちないようにしたものです。

確かに、ホールでチラシをめくる音などは気にする人もいるかと思います。私はあまり気にならないのですが、とはいえ、その音で気にする人もいらっしゃいますので、なるべく落とさないようにはしています。めくる音はある程度自分で軽減できても、バサッと落ちてしまうとその音は結構なものになりますので・・・・・

ついつい、前が見えますともっと見たくて前のめりになる人もいますので、つい落としてしまうということは発生します。それが自分の席ならともかく、下の席まで行ってしまうと、もうそれは「逝ってしまった」という悲惨なことに・・・・・

そのためにホールとしてできることは何かといえば、いかにして落下を防止するかというのがまず真っ先に考えることになるでしょう。その時におそらくホール側が考えるのは、そのホールが何のためにあるのか、だと思います。

意外とこれを考えないで批判したりする人もいるのですが、ホールとは何でしょう?そして何のためにあるのでしょう?ホールとは端的に言えば「一堂に会する室内における場所」です。特に近代においてはある目的のために一堂に会する場所をホールと呼んできました。

それがコンサートのためであればコンサートホール、と呼ばれてきました。しかしホールである以上、静かにしなければならないという決まりはありません。コンサートの時なら静かにしましょう、という「不文律」があるだけです。なぜならクラシック以外のジャンルであればむしろ静かに聞くということはまれだからです。

ですから、ホール側とすれば、多目的ホールであればあまり対策を打てません。一方で目的がある程度はっきりしているホールであれば、いくつかの対策を講じることができます。ですがホールはパブリック、つまり公共のものですから、いろんな人が来るという前提に立たねばなりません。

静けさと公共性をどう両立させるのか・・・・・みなとみらいホールはかなり苦労して結論を出したのだと思います。その結果が、網であった、と考えることができます。コンサートホールとは何の目的で設置されているのでしょう?演奏者をただ単に見に来るだけなのでしょうか?違いますよね。まず「生で聴くため」ですよね。その目的で考えれば、音が聴けて、ある程度姿が見れればいい、というテクストになるでしょう。

もちろん、人によっては演奏者を見に来ている人もいます。特にクラシック以外のジャンルであればむしろ「会いにきている」という人も数多くいます(だからこそAKB48の「会えるアイドル」は成功したのです)。そのバランスをどのように取るのか・・・・・なかなか難しい判断だと思います。

私は残念ながら、昨今の「マナーを守れ警察」が多い状況では、このみなとみらいホールの判断を支持します。見たければ鉄ヲタが「10時打ち」をするように見える場所のチケットを購入するべきだ、と考えます。私はコンサートに行くのはまず「聴きに行く」のであり、その次に「どんなふうに演奏しているのか」です。顔の表情まで見えればいいですが2階席とかから細かいところまでなかなか見ることはかないません。むしろ指揮者がどのようにタクトを振っているか、それに演奏者がどのように答えているかのほうが興味がありますので、それが見えればまあ網でもいいかな、という感じです。どうしても見えづらければもうすこし後ろの席を取る、という方法もあるでしょう。

一つ考えたいのは、コンサートホールの座席は、はたして現代社会において本当に必要なアメニティを満たしているのだろうか?ということです。私は鉄道ファンでもありますから、鉄道が航空や自動車よりも使われなくなってきていることに敏感です。その理由は様々ありますが、一つの理由にアメニティが鉄道のほうが貧弱であることが飛行機や自動車を使う人から指摘されることがあります。座席のコンセントなどの有無、待合室などのサービス、などなどです。例えば鉄道だと途中駅でレストランすらないような駅はたくさんありますが、空港ならまずないということはありませんし、高速道路のSAやPAでも軽食は食べられるというところがほとんどです。

一方、コンサートホールはチラシ配りやプログラム配布を許可している割には、そのチラシやプログラムをおいておける場所がなかったりします。私もプログラムを見ながら聴くことがありますが本当に苦労して見ています。少なくとも鉄道の特急クラスなら最低限置き場所はあります。J-popならまだしも、クラシックのコンサートでプログラムやチラシを配らせておいてその置き場がない、あるいは参照させないようにしているというのは、いろんな意味でクラシックファンのすそ野を狭めているとしか言いようがないのではないか?と思います。改築するのであれば席数を減らしてチラシなどを置ける場所を席に作る、という選択もあったはずです。

今の座席のままでクラシックのコンサートホールがいいというのであれば、まずチラシ配りは禁止すべきだと思います。プログラムはやむを得ないとするだけでもかなりの改善が見込めるはずです。チラシは電子化しても十分です。あるいはホールで自由に手に取るようにしてもいいはずです。配ってしまうからそのまま手に持って席まで行かざるを得ず、しかもしまうのも大変です。時間がなくてギリギリに座る人もいます。それを考えればチラシをいかにするか?という視点もあってもよかったように思います。

ただ、ホールもいろんな声に応えなければならず、やむを得ずみなとみらいホールは今回の結果になったのだと思います。今一度私たちは「ホールとはいろんな人が来る場所なのだ」ということを、お互いに考える時期に来ているのではないでしょうか。単に「あれは迷惑だ!」というだけではなく、では自分はどうだろう?いろんな人が来るということをどれだけ許容しているのだろうか?ということもまた考えるほうがいいような気がします。

 

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東京の図書館から~小金井市立図書館~:ドラティが振るドヴォルザークの組曲集

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、ドヴォルザーク組曲を収録したアルバムをご紹介します。

ドヴォルザークの「組曲」はいくつかありますが、その中でも「アメリ組曲」は有名でしょう。そしてもう一つ、ドヴォルザーク組曲で有名なのが「チェコ組曲」です。が・・・・・

実は、私にとってはチェコ組曲は初体験。とってもチェコらしい作品なんですが。

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特に第5曲はフリアント。まさにチェコらしさ全開です。

途中3曲は小品。「プラハ・ワルツ」は1879年に作曲されたもの。まさに舞曲と言っていい作品。「弦楽のための夜想曲ロ長調」は元々弦楽五重奏曲第2番の第2楽章だったものを管弦楽へと編曲したもの。

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「スラヴ狂詩曲第3番変イ長調」は1878年作曲の「3つのスラヴ狂詩曲」のうちの第3番。変幻自在な音楽がチェコ的な雰囲気を醸し出します。

そして最後が「アメリ組曲」。このブログではピアノのほうを先に紹介していますが圧倒的に有名なのはこの管弦楽の方。アメリカな雰囲気を持っていますが、プレーヤー上で繰り返し聴いているとその次である最初の「チェコ組曲」とそん色ないのことに気づきます。如何にアメリカの旋律にボヘミアを見ていたかがよくわかる作品であるようにも思えます。

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となると、このアルバムが意図するところは、「アメリカの旋律からボヘミアを見ていたドヴォルザーク」なんてことが見えてきます。なぜなら、指揮はアンタル・ドラティ、オーケストラはデトロイト交響楽団とロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団だからです。とてもアメリカ的なオーケストラと、ある意味ヨーロッパ的なオーケストラが、それぞれ「ボヘミア的」な作品と「アメリカ的」な作品を演奏してみたら、一体どう聞こえるのか、というある種の実験を行っているからです。

結果、双方乗り入れでも、やはりドヴォルザークアメリカの旋律からボヘミアを見ていたように感じるんです。違和感がない!これは大事な結果だと思います。勿論、アメリカはヨーロッパの影響を受けた国ですが、しかし文化的に必ずしもヨーロッパ的だと言えない部分もあるからです。にも拘わらず、デトロイト響が演奏する「ボヘミア的」な作品はしっかりとボヘミア的に聴こえますし、一方ロイヤル・フィルが演奏する「アメリカ的」な作品もアメリカ的に聴こえる一方、共通する和声も感じるのです。

ドヴォルザークアメリカの旋律にボヘミアを見つつも、当時はやりの民謡収集からアメリカにおいて作品をつむぎだしてみると、意外にもアメリカ的にもボヘミア的にも聴こえる・・・・・それこそ、ドヴォルザークの個性なのだろうと思います。ドラティやオーケストラもその解釈で統一されているような気すらしますし、その違いや同じことを楽しんでいるかのように聴こえるのです。

さすがメロディーメーカー・ドヴォルザーク、本領発揮、と言ったアルバムなのではないでしょうか。こういう楽しさも、クラシックを楽しむ一つです。

 


聴いている音源
アントニン・ドヴォルザーク作曲
チェコ組曲ニ長調作品39B.93
プラハ・ワルツB.99
弦楽のための夜想曲ロ長調作品40B.47
スラヴ狂詩曲第3番変イ長調作品45-3(B.86-3)
アメリ組曲イ長調作品98B B.190
アンタル・ドラティ指揮
デトロイト交響楽団
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。