かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

新しい年に

皆様、明けまして、おめでとうございます。

今年もこのブログを、よろしくお願いしたします。

さて、昨年2020年は新型コロナウイルスの感染拡大により、世の中が混乱した1年でした。このブログに関わる音楽は、軒並みコンサートが中止や延期となり、特にプロの演奏家たちは生活に関わることとなりました。

コンサートは基本、無観客配信となり、大資本だけがコンサートを開けるような状況になりました。夏を過ぎてようやく観客を入れてもいいようになりましたが、冬になり現在再び猛威を振るい始めています。

幸い、コンサート自体はプロは何とか資金援助等の見込みがついて通常でおこなわれていますが、それも入り口で検温して正常値以上では入場不可ですし、そういう用意ができないアマチュアはほとんどコンサートができない状況になっています。

そんな中、昨年はこのブログでも、コンサート雑感ですがそれは配信だったりというのが圧倒的になりました。こんな時代がくるなんて、少なくとも私が生きている間は来ないだろうと思っていました。もちろん、配信というのはあるだろうと思っていましたし、すでに欧州ではそれは通常になっています。しかし日本では・・・・・と思っていました。

少なくとも、生と配信が同程度、くらいだろうと。しかし、今年の春頃は、配信のみだったわけです。そんな状況が私が生きている時代に来るなんて、本当に信じられません。

そして、第九がほとんど演奏されない、プロオケですらあきらめるという時代がくるとも思いませんでした。もちろん、選択の上第九を演奏しないという時代は来るだろうとは思っていましたが、演奏をあきらめる、という時代が来ようとは、まったく想像していませんでした。

このブログの紙面とましては、おそらく近いうちに「神奈川県立図書館所蔵CD」のコーナーは終わるのではないかと思います。すでに引っ越しており、過去に借りたものをご紹介している状況なので、今年もしくは来年早々には終わるだろうと思っています。そのため、新しいコーナーを作るかどうか、考える1年にしたいと思っています。

そしてさらに、「コンサート雑感」のコーナーは正式に配信もコンサートとして取り上げることにします。今まではコンサートの代替えという形で取り上げてきましたが、今後は音のみのメディアとは多少異なるという動画の性質を踏まえ、生音と同列に置きます。これは、ほかのブログとおそらく決定的に異なるスタンスになるだろうと思っています。

ほかのブログでは、動画は動画、のはずで、生音と同列においてはいないはずです。それは動画がスピーカーを通して音を聞いているため当然の判断だと思いますが、今後コンサートが同時にネット配信される時代を先取りしたいという私の想いがあります。

ウィズ・コロナあるいはアフター・コロナの時代は、ワクチンさえ開発されれば元の生活は戻ってきますが、様相は変るはずです。いつでも配信だけにしてもいいように、コンサートの動画配信は徐々にでしょうが増えていくと考えます。その時代を先取りしたいのです。

すでに、私が取り上げる「メディア」はCDからハイレゾというデータに移っています。ですので、本来生音を楽しむはずのコンサートも、配信も取り上げていく、ということなのです。新しい時代がどのように移り変わっていくのか、私の評論で感じていだたけると嬉しいです。もちろんそれは、読者の方には必ずしも心地いいものではないかもしれませんが、そのあたりはご容赦願いたいと思います。また、意見があれがコメント欄に書き込んでいただけると嬉しいです。

では、今年一年が、皆様にとって良い1年になりますよう。私もできれば2日には、初詣に行きたいなあなどと思っています。状況が状況なので、サクッと・・・・・

 

 


地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

今月のお買いもの:タッシェン・フィルハーモニーによるベートーヴェン交響曲全集3

今月のお買いもの、シリーズで取り上げているタッシェンフィルハーモニーによるベートーヴェン交響曲全集、今回はその第3集。第4番と第5番を取り上げます。

第4番は「二つの巨人に挟まれた」と表現されますし、第5番は「運命」という標題が付くもの。その二つは、交響曲の歴史の中でも、完成されたものへとつながっていきます。

そんな作品を、室内楽に毛が生えた程度の編成で演奏してしまおうというのがこの全集ですが、この二つの交響曲においては、室内楽に毛が生えた程度の編成のはずなのですが、しっくりくるんです、これが。

もちろん、極限的に編成が小さいことで、音の厚みというのがないのは否めないのですが、その欠点を感じないのです、聴こえているにも関わらず、です。

聴こえているのに、その薄さを感じず、むしろ音が際立っているのです。第4番ではその音が際立っていることがとてもいい方向へ向かっており、曲の本質がむしろ浮かび上がっている感覚になります。

一方、第5番は第3楽章まではとてもいい感じなのですが、第4楽章ではやはり少し物足りなさを感じます。管楽器をもう少しぶっ放してもよかった気がします。編成が少ないということは、各パートが最大限の音を出さねばならないといういことを意味するわけで、その点では指揮者シュタンゲルの解釈はどうなのかなあという気がします。まあ、喜びの表現としてはありだと思いますけれども。

弦楽器は本当によく頑張っているように思います。その点で何とか作品が持つ「勝利の音楽」という感じはできているように思います。それはまさしく、音が際立っていることにより踏ん張った結果生まれた奇跡だと思います。ただ、この経験は最後の第九で生かされている、とだけは付言しておきましょう。

さて、次回第4集は越年。本当は今年中に終わる予定だったのですが、仕事の都合そうはいかなくなってしまって・・・・・でも、ベートーヴェンがかかった難聴に比べれば、です。ぜひとも来年の次回もお読みくださりますよう、お願い申し上げます。まだまだ年内、エントリアップしていきます。

 


聴いているハイレゾ
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第4番変ロ長調作品60
交響曲第5番ハ短調作品67「運命」
ペーター・シュタンゲル指揮
タッシェンフィルハーモニー
(Naxos Edition Taschenphilharmonie)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:ブクステフーデ オルガン作品集

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はドイツバロック音楽の大家、ブクステフーデのオルガン作品集のアルバムをご紹介します。

ブクステフーデ。この作曲家の名前を知ったのはもうずいぶん前です。社会人になって、バッハの受難曲を聴きに行きはじめたあたりですでにその名前を聞いています。BCJ鈴木雅明氏がそもそもオルガニストだからです。そのレパートリーとしてプログラムに書かれていたのを見て知ったのですが、その音楽に触れるまでは、ずいぶんと長い時間がかかることとなりました。

そして、図書館でまとまったものが聴ければなあと思って借りたのが、この一枚でした。チェンバロはたしか聴いたことがあるはずなのですが、オルガン曲はまだだったので、借りてきたものでした。

ブクステフーデは、時代的にはバッハの直前に生きた人です。活躍した時代はあまりかぶっていないのですが、それでも大家だっただけあって、バッハはこのブクステフーデからも多大な影響を受けています。

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そんなブクステフーデですが、聴いてみると、バッハと様式的にはそれほど変わらないことに驚くかもしれません。そう、バッハはこういった大家たちが確立した様式をいわばまとめ上げた人、と言っていいのです。なのでバロック音楽のある意味入門編としてはやはりバッハですが、集大成でもあるので、奥も深い作曲家だと言えます。同じことはこのブクステフーデにも言えるかと思います。

ブクステフーデはオルガン曲であっても、大抵教会と関係ある作品を書いていますから、どうしても宗教的な側面もありますが、しかしバッハの器楽曲のような、洒脱な面も持っています。ですので聴いていてとても楽しいのが印象的です。

このアルバムは、そういったブクステフーデのオルガン曲を、一枚で俯瞰する内容となっており、一度聴いてみるともっと聴きたいと思わせるのに十分なのですが、いやはや、もうこれ以上棚が・・・・・CDが多くて、意外やまだまだハイレゾになっているのが少ないのが、ブクステフーデという作曲家の知名度なのかなあ、と思います。

そんなブクステフーデを弾くのは、このブログでもおなじみになりつつある、マリー=クレール・アラン。しかも、フランスの結構新しいオルガンで弾いているんです、これ。ではかなり気合入れてなのかと言えば、これまた軽めなんですね~。実はブクステフーデが生きた時代は、マウンダー極小期ですから、ペストなどで死者も多かった時代ですが、それでも思い切り力を入れなくても、十分哀愁すら感じられる(トッカータ ニ短調BuxWV155)曲もあったりで、まさにアランの才能にぴったりな作品群ではないのかと思います。

特に、アランも歌う演奏家なので、私としては好きなオルガニストの一人ですが、ただ神へと祈るというよりは、そこにいる人間の内面すらにじみ出るのです。ちょうど私が聴いている今という「時」は、新型コロナウイルスにより死者も大勢出ているというフェーズ。アランの演奏という「歌」により、ブクステフーデがオルガンで紡いだ「詩」が、私の魂に語り掛けているようで、ディートリヒ、お互い辛いよね、と慰めあっているかのような感覚になります。

その意味では、この時期に聴いてエントリを立てられるというのは、何か与えられているような気がしてなりません。

 


聴いている音源
ディートリッヒ・ブクステフーデ作曲
前奏曲、フーガとシャコンヌ ハ長調BuxWV137
コラール「甘き喜びのうちに」BuxWV197
コラール「暁の星のいかに美しく」BuxWV223
コラール「ああ主よ、我ら貧しき罪人を」BuxWV178
トッカータ ニ短調BuxWV155
前奏曲ト短調BuxWV149
コラール「来たれ聖霊、主なる神よ」BuxWV199
パッサカリア ニ短調BuxWV161
コラール「われらのもとにまします父なる神よ」BuxWV190
コラール「アダムの堕落によりすべては朽ちぬ」BuxWV183
前奏曲ニ長調BuxWV139
マリー=クレール・アラン(オルガン、1975年ヘルファー=エルマン製)

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神奈川県立図書館所蔵CD:リョベート ギター作品集

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はリョベートのギター作品集を収録したアルバムをご紹介します。

リョベートという作曲家は、あまり知られていないのはないでしょうか。カタルーニャ出身のギタリスト、そして作曲家です。絵師も入るかもしれません。

ja.wikipedia.org

活躍した時代が意外と近いのに驚かれるかもしれません。ギターという楽器は古典派以降に発達したもので、特にギター作品に関しては古典派の時代が通常のクラシック音楽とずれており、ロマン派の時代に古典派の時代を迎えます。

ですから、かれが活躍した20世紀前半という時代を知ると、驚きを隠せないのではないでしょうか。あまりにも旋律線がはっきりしており和声的であることに。しかしそれはその時代のギター作品では自然なことであるわけです。

だからなのか、スペインというお国柄では、ギター作品が好まれる傾向があります。リョーベトがパリを好んだというのには、そういったスペインというお国柄が強く影響したのではないか、という気がします。スペインはいまだに王国、ですから・・・・・

さて、そのリョーベトのギター作品、そんな背景を持っていますので、とても和声的で魅力的。派手さはないんですが、聴いていて飽きないですし、コロナのこの時期において、すっと心に入ってきます。ベートーヴェンが好きな私も、こういう音楽もいいなあと思います。

それは演奏のせいもあるもかもしれません。演奏するのはミケーリ。検索すると結構手広く演奏しているようで、特にテデスコと言った、このリョーベトへとつながる作曲家の作品も演奏しているギタリストです。その「歌」がなんとも言えずいいんです。

それは当たり前のように思われるかもしれません。しかし、歌っていることを本当に評価している評論家などほとんどいません。音楽がそもそも歌から始まっており、特に西洋では聖歌というものが最上であり、楽器はその最上を目指すことから始まったという歴史を踏まえると、本当は歌ってなんぼなのですが、つい楽器は安定的に音が出るだけに、忘れる演奏者も多々いるのです。

大抵そういった演奏家たちの演奏は、楽譜をなぞっているように聴こえます。なので、私にとっては、外形的美であるかそうでないかは、歌っているかいないかで大抵判別できます。なのでカラヤンは必ずしも外形的美とは言えません。それ以外で外形的美と言える指揮者などごまんとおり、そして大抵はそんな指揮者は大成しないものです。外形的美であるからカラヤンは大成したのではないのです。それを知らずに評論するアンチが多いので困ったもんです。

ミケーリのこの演奏は、たっぷりとギターを歌わせることで、ギターとしては古典派であっても、作品の題材などは多分に時代の影響を受けている作品の特質を踏まえており、見事です。だからこそ、たとえBGMで聴いていたとしても、魂が震えていることだってあるのです。例えば、洗濯物を干しながらも、心は泣いていたり、とか・・・・・

こういう演奏こそ、真にプロの仕事だと思います。

 


聴いている音源
ミゲル・リョベート作曲
スケルツォ~ワルツ(1909)
奇想曲練習曲(1899)
マズルカ(1901)
13のカタルーニャ民謡(1899~1920)
即興曲(1922)
5つの前奏曲(1912~1935)
フェデリコ・ブファレッティのためのマズルカ
4つの民謡(ca.1910)
練習曲 ホ長調(1899)
ロマンス(1896)
ソルの主題による変奏曲(1908)
ロレンツォ・ミケーリ(ギター)

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神奈川県立図書館所蔵CD:ストラヴィンスキー「結婚」・ミサ曲

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はストラヴィンスキーのバレエ「結婚」とミサ曲をカップリングしたアルバムをご紹介します。

このブログでもストラヴィンスキーは結構ご紹介していますが、私は実はあるときからことさら12音階ということを強調することをやめています。それは単にストラヴィンスキーが表現手法としてたどり着いたものでしかなく、大切なのはその手法を使い何を表現したいのかだと、気づいたからです。

特に、このアルバムを借りたのは単にウィキにも出ているバーンスタインの名盤だからではありません。むしろカップリングのミサ曲が目当てだったのです。

ja.wikipedia.org

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かつて、アマチュア合唱団員だった私は、そこで知り合った友人にこう言われたことがあります。

ストラヴィンスキーは12音階が有名だけれど、ミサ曲も作曲しているんだ」

え?あの時代の作曲家でミサ曲?と思ったものです。それ以来、ストラヴィンスキーのミサ曲が収録されたCDを探していたのです。それがなんと、ストラヴィンスキーのバレエ曲の中でも有名な部類の「結婚」とカップリングだった、というわけです。しかもそれは、バーンスタインアルゲリッチというコンビの名盤。

「結婚」はストラヴィンスキーも当時の潮流に同調して、ロシアの民謡採集をした結果生まれた作品だと言っていいでしょう。ただし、そのまま使わず、その中からストーリーを再構築して、ひとつの作品に仕上げたものです。ロシアの婚礼の異端がのぞけるような音楽です。とにかく、バレエ音楽なのにいきなり声楽。そして伴奏は打楽器とピアノ。これがエスニックかつ生命力あふれるものへとつながっています。

一方、ミサ曲は一転して静謐。同じように12音階を使っていながら、このミサ曲では神への畏れが前面に出ていると言っていいでしょう。まあ、私としては「モーツァルトのミサ曲は嘘」というストラヴィンスキーの言説には反対しますが、しかし敬虔な東方教会教徒であったストラヴィンスキーとしては、受け入れられなかったのだろうと思います。結果として、このストラヴィンスキーのミサ曲はむしろ、民族宗教を超える作品に仕上がっています。私としてはキリスト教だけではなく、仏教の蓮華蔵世界を想像すらしますので・・・・・

さらに彩っているのが、レニーの指揮と楽団の演奏なのです。実は演奏するのはイギリス・バッハ・フェスティバルに参加した演奏家たち。必ずしも常にレニー(バーンスタインのこと)と帯同していない音楽家たちが、レニーに共感して躍動する姿が如実に録音されています。ピアノのアルゲリッチが霞むくらい・・・・・

まるで「火の鳥」のような野性的な躍動がそこにはあり、ロシアにも私たち日本人が持つような躍動的な生命の発露があるんだなと知ることができます。ミサ曲も静謐ながらもリズムを感じることができる演奏で、ストラヴィンスキーが言う「本物のミサ曲」というものがどういうものかを考えさせるに十分な内容だと思います。モーツァルトを否定しつつも、じつは「神を畏れつつ祈る、生命ある人間」という、モーツァルトも重視した部分では一緒になっているからです。アプローチが違うだけ、です。実際、鏡像ミサという、カンタータでバッハがやった形ですしね。否定したのは「和声」だけです。

こういうカップリングをするなんざあ、さすがDGだなあと思います。日本ではありえないですからね、残念ながら・・・・・・

 


聴いている音源
イゴール・ストラヴィンスキー作曲

バレエ「結婚」(1914~23)
ミサ曲
アニー・モーリー(ソプラノ)
パトリシア・パーカー(メゾ・ソプラノ)
ジョン・ミチンソン(テノール
ポール・ハドソン(バス)
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ1)
クリスティアン・ツィンマーマン(ピアノ2)
シプリツィアン・カツァリス(ピアノ3)
オメロ・フランセシュ(ピアノ4)
イギリス・バッハ・フェスティバル合唱団(合唱指揮:ニコラウス・クリーオベリー)
三位一体教会少年合唱団(合唱指揮:デイヴィッド・スクウィブ)
レナード・バーンスタイン指揮
イギリス・バッハ・フェスティバル打楽器アンサンブル(結婚)
イギリス・バッハ・フェスティバル管弦楽団員(ミサ曲)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:マゼールとウィーン・フィルのマーラー交響曲全集6

東京の図書館から、シリーズで取り上げています、小金井市立図書館の、マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるマーラー交響曲全集、今回はその第6集をとりあげます。

番号順に来ているこの全集、第6集ということは第6番ということになります。この第6集は2枚組。それなりに第6番が長いのでそうなっています。

「悲劇的」という標題がついている割には、演奏しているウィーン・フィルからは、少なくとも第1楽章に関しては絶望感は見受けられません。むしろ演奏する喜びがにじみ出るような、生命力あふれるものになっています。

むしろ、第3楽章の「諦観」ぶりのほうが私にとっては強い印象を残しています。そして第4楽章の決して絶望していない、遠い先に光が見えるような音楽。そしてその音楽を、喜びを持って演奏するウィーン・フィル

第6番の標題が、如何に端的であり、実際にはもっと複雑であるということを、演奏で示しているのは素晴らしいと思います。こういう点がさすがウィーン・フィルだと言えるのではないでしょうか。

確かに、ウィーン・フィルは素晴らしいオケです。ではどこか素晴らしいのかと説明できる人は少ないのではないでしょうか?特に、ウィーン・フィルはほかのオーケストラとは違うという説明がよくあるのですが、ではほぼ一流がそろうヨーロッパのオケで、ウィーン・フィルが頭一つ突き抜けているというのはどういう点か?ということを説明できる人は少ないでしょう。

私に言わせれば、ひとつにはサウンド、つまり響きです。その絶妙なまでの豊潤さ!今年の来日時、ソーシャル・ディスタンスに否定的だったのにはそのサウンドを守りたいという点がありました。そしてもう一つが、微妙な表現力、です。特に自分たちにゆかりがある、マーラーブラームス、です。

歌うオケはヨーロッパならいくらでもあります。しかし、その歌い方となると千差万別。その中で、朗々かつ繊細に歌うのが、ウィーン・フィルだと言えるでしょう。マゼールはそういったウィーン・フィルの特質を良く踏まえて、適切なタクトを振っているように思います。もちろん、オケの団員がこっそり指揮者と違うことをやっているという点もあるかもですが・・・・・・ウィーン・フィルならあるあるですからね~。

とにかく、豊潤かつ歌うこの演奏は、マーラー交響曲の本質を突いたものであろうと思います。そもそもマーラーとは、歌曲で有名な人でしたから・・・・・

 


聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
交響曲第6番イ短調「悲劇的」
ロリン・マゼール指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:マゼールとウィーン・フィルのマーラー交響曲全集5

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリをご紹介しています。シリーズで取り上げているマゼール指揮ウィーン・フィルによるマーラー交響曲全集、今回は第5集をとりあげます。

番号順なので、第5集は第5番ということになります。そもそも、私が最初に触れたマーラー交響曲が第5番。その最初の音源以来の別の音源ということになります。

大抵、最初に聴いたものって強烈な印象を放ち、刷り込まれていることが多いのですが、この第5番に関しては特段そういう事がないのかなと思います。このマゼール指揮ウィーン・フィルも十分聴けるもので、もちろんダイナミクスなど違いはあるのですが、むしろ最初のものよりも凌駕するかもと思うくらいの素晴らしい演奏だと感じます。

第5番から新しいマーラーが始まる・・・・・アルマがそう言い残していますが、まさに新しいマーラーがそこにあります。旋律の多様性による和声の多様性。それによる心地よさを持ちつつラディカルなものも存在し、初演の練習ではアクシデントがいくつもあったのがこの第5番ですが、現代のオーケストラはそんなものもものともしないというか、20世紀音楽はもっとぶっ飛んでしまったため、マーラー程度ではむしろ古風ですら感じるくらいです。

そんな中でもまれてきた現代オーケストラにとっては、マーラー交響曲第5番がいかに様々なごった煮になっていて困難な部分があったにせよ、問題ないものになっています。もう一度言いますが、すでにマーラー交響曲程度は、古風であるのが、21世紀という時代です。

この演奏は20世紀後半ですが、その時ですらすでに12音階やセリーなどが出ていて、それが当たり前になっているという時代です。そんな時代に生きる団員たちがマーラーに苦労するなどそうない話です。もちろん、解釈等で格闘することはあり得ますが・・・・・・

しかもです、再び触れますが、ウィーン・フィルとは、そもそもが国立歌劇場管弦楽団がコンサートの時に名乗る団体名です。つまり、マーラーとめちゃくちゃゆかりがあるわけです。関係性としてはかなーりぎくしゃくしましたけれど・・・・・

だからこそ、ウィーン・フィルとすれば、マーラー交響曲を演奏するということは、自分たちの誇りなわけで、その誇りが随所にみられる演奏です。一つ一つ味わいながら演奏しつつも、テンポ感もよく、それらが一つのサウンドを作り、グルーヴ感もある。特に豊潤なサウンドはさすがウィーン・フィル

マゼールはそういったウィーン・フィルの特質をなんら邪魔せず、しかし適切なテンポをタクトで示していると言えます。次回ウィーン・フィルが来日したとき、マーラーだったら高い金出しても聴きに行きたいなあと思わせる演奏です。

 


聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
交響曲第5番ハ短調
ヴォルフガング・トムベック(フレンチ・ホルン)
ロリン・マゼール指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。